Blog 本居宣長研究 「大和心とは」 : 『直毘霊』を読む・八(上)
- それでは第8回ということで。お願いします。
- 今回の本文。
- この部分というのは、前回の最後にも言いましたように、宣長の発見した“古(いにしえ)の道”の中核というか、それを成り立たせている根源的な部分ですね。そこと繋がる部分なんで、これは非常に深い言葉です。これをさらに分けて解釈していきましょう。
- まず最初に、「そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所爲(ミシワザ)にして、」。ここまでで。
意味は書いてある通りです。この天地(あめつち)の理(ことわり)というのは。「理」との言葉で書いてはいますが、全てのことはということですね。具体的に言うと起こっている“こと”や“もの”ですよね。そうしたものは全て神の御所為(みしわざ)なのだと。
それは「いともいとも妙(タヘ)に奇(クシ)しく、靈(アヤ)しきものにしあれば、」。本当に霊妙にして、底知れないものなので。
「さらに人のかぎりある智(サト)りもては、測(ハカ)りがたきわざなるを、」。決して人の限り有る悟りをもってしては推測することさえできないものなのだと。
「いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。」。どうしてそのようなものを極めつくして、知ることができるのかと。
そのように書いています。
「すべて神の御所為(みしわざ)にして」。ここのところだけ聞くと。。。まず今の人が思い浮かべる「神」という言葉自体、宣長の言っている「神」と違いますよね。今の人にとって「神」というのは、全知全能のただ一つの神とか、そういうものとして意識されがちですよね。明治以降、西洋の思想が入ってきてから、「神」という言葉の意味は変わってしまったんですね。
- 一神教的な「神」または、人格神的な「神」ということでどうしてもイメージしがちですよね。
- そうですね。世の中のそういう総元締め的な神様ですね。唯一絶対、世界の中で唯一つだけ。全知全能ですからね。すべてのことをやった。この世を作ったのも全部そうで、すべては神の御導きとか言うでしょ。キリスト教でも。そういう形でどうしても感じられる。そういう「神」というものに対して、無神論的な立場に立つ人というのが増えてきている。
そのような立場の人から見るとこの宣長の言葉というのは、「神」自体の存在が証明されていないのに、唯一絶対の創造神的な存在を連想させてしまうから、このまま読むとこれはいったい何なのだと感じられるのではないかと思いますね。
- 少なくとも一般的には“宗教”における“神”という意識で読んでしまうところではあるでしょうね。最初の段階で述べていた創唱宗教の“神”ということでイメージしがちになってしまっているのは事実ですよね。
- その文脈でほとんどとらえてしまう。ところが、日本において“神”という言葉がそのような概念と結びついたのは、つい最近のことであって……。
- 実際は“神”という言葉が、いま言っていた創唱宗教の“神”と全くイコールでそれ以外のイメージが無いということになったのが実は明治以降。
- 明治以降というか、どんどん時代が進み、現代に近づくにつれその傾向は強くなってきていますね。
ところで、その“神”というのが、一神教的というか、人格を持った“神”、たとえばキリスト教における“神(God)”と全く同じなのかというと、現代の人々が感じているのはちょっと違いますね。そういうキリスト教的な“神”を、近代以降ヨーロッパでは、否定してくる思想の潮流があって、人間理性の神格化というか、“理(り)”の神、真理そのものが神というか、従来の“人格神”を越えて、まさに“理神(りしん)”が出現している。ここでいう“理神(りしん)”とは、西洋哲学や神学でいうところの「理神論」とは関係なく、単純に“理論の神”の略語として使っています。
要するに、論理的・科学的に確定された“真理”がそのまま“神”という形をとっているわけです。そのような“理神(りしん)”が、現代においては“神”の正体に近い。ただ、よく見てみれば、それは一神教的な“神”と、実質的なところは同じですよね。唯一絶対であるところは変わらない。
人によってだいぶ違うのでしょうが、日本の戦後の学界というのはやはり唯物論が強かったでしょ。唯物論から見て、彼らは宗教的な“神”を否定しているのだけれども、やはりそこには、新たな唯物論、近代理性に基づいた絶対的なものが、明らかに想定されている。それが進歩史観などさまざまな形をとって現われて、現状ではなく未来のある地点に理想郷(天国)を見るという構造を作っている。
キリスト教の場合は“天”ですよね。“天国”と“地上”。今のこの“地上”というのは悪魔の住む世界であり、教会はその中の“避難所”であると。“天にまします神” によって“地上”の有るべき姿が示される。そういう垂直構造ですよね。唯物論、近代理性は、その垂直軸をほとんど断ち切っちゃった。
それで、今では科学技術や、人権思想によって世界中の生活環境や社会制度が整備されて、不便や不幸、差別などが一切無い世界が、未来に必ず到来するという形で、“天国”が時間軸の彼方に据えられている。水平の時間軸の延長上にある“未来”に、ひとつの理想世界、完全に理念で満たされた世界を設定し、そこから逆に現実を見返して、ああだこうだと言っている。実はその比較の基準となる理念そのものが“神”なんですね。
だから根本的には変わらないですよね。垂直構造なのか、水平構造なのかの違いだけで。「今・ここ」という現実とは別のところに、一つの観念体系・世界観を理念的に作り、それによって現世を裁くという、他律的な構造は全く同じ。
- しかしその考え方と宣長がこの江戸時代、この文章において書いた“神”というのはそのような意味合いとは全く異なっているということですね。
- だから過去の宣長に関する著作を読む限り、ほとんどの著者は、この“神”が読めていない。
- (笑)
- さっき言った、いわゆるキリスト教の“神”なんです(笑)またはその変形バージョンというかね。そういう“神”に影響された人々がとらえて、頭の中で作った“神”観でこれを読む。そうするとどうなりますか?
- そりゃー、摩訶不思議なものになりますね(笑)
- 変なことになりますよ。“神”自体がまったく、宣長が言っている“神”の意味合いと違うんですから。違うものを当てはめて、「これは宣長の盲目的な信仰である」、「これは宣長個人の信仰心の披瀝であり、世界の見方なのだ」と言われてもね。そのように言って批判するのですから。
- それならば宣長がやってきた古事記の読み方、源氏物語を読み解く姿勢というのはその源氏物語、古事記の時代の中で息づいていた言葉の位相。その位相そのものを体で感じ取って読み直していこうというのが宣長のスタンスなわけですよね。
それでいうといまの世の中の宣長研究の人たちがやっているやり方というのは。。。本当は彼らがやらなければならないのは宣長と一緒で、宣長が言っていた位相において“神”をとらえて、なぜこの文章のこの場所において“神”という言葉が出てきたのか。それをとらえていかなけりゃいけない。それにもかかわらず、現代の位相における“神”からこの「神の御所爲(ミシワザ)にして」の“神”を読み解こうとしているということですよね。
それは宣長がやってきたスタンスから考えると言語道断のやり方と言っても良いのじゃないですかね。
- だから全く読めていないということですよ。宣長の言説の中で最も核になる部分であるにも拘らず、ほとんどの人がここのところが読めていない。結局、宣長は何を知ったのか、何を発見したのか。“古道(いにしえのみち)”とは一体何なのか。その問題を解く一番肝心要の部分ですよ。ここをわからずにいくら説いても、それは一体何なのだということですよ。
現代の学者の多くが、この肝心要が分かっていない。だから、この言葉を聞くと、急に奇異に思って、「宣長個人の独断的な信仰告白だ」と決めつける以外にないんですよ。一般の人が奇異に思うのはしょうがないですけれどね。言葉が同じでも、言葉の意味するところというか、その内実は、その時代その時代で、少なからず変化していきます。だから、現代において、古(いにしえ)の時代、その言葉が他の言葉と響き合い、生き生きとした生命を持って働いていた、ありのままの意味、というか、言葉の“振り”を知ることの難しさ。それがすごく有るなぁとつくづく感じますね。「神」という、言葉一つを見ても、それはわかりますね。
- ここの「神の御所爲(ミシワザ)にして」という言葉の“振り”。この言葉の“振り”を現代の立場からしか読み解かない。そのスタンスから読み解く限り、この宣長の言っている言説というのは、全く自分自身の心と寄り添ってくることは無いでしょうね。
- いままでは何とかついて来た人も、この文章で、理解不能というか、ついていけなくなるわけですよ。これは宣長個人の信仰告白だと。いいところ行ってそれですよ。
実は『直毘霊(なおびのみたま)』には、こういう大きな山とも言えるところが二つ有るんです。そこがわからないと、他のところが部分的にわかったとして、どうしても全体の筋が通らない。宣長の本当に言いたい真意がわからないんです。
その一つ目というのが、『直毘霊(なおびのみたま)』の第一行なんです。「皇大御國(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き神御祖(カムミオヤ)天照大御神(アマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御國(オホミクニ)にして」。ここです。ここでまず、普通の人はついてこれないですね。
これを説くために「『直毘霊』を読む・壱」と「『直毘霊』を読む・弐」2章を費やしましたね。時間が有る人はもう一度読んで頂ければと思いますけれど、いかに現代の人に説くことが難しいか感じてもらえるかもしれない。
- パッと読んだ限り狂信者という言葉の一言で終わってしまいますからね。一般的には。
- そういうことです。
急にポーンと出てくるでしょ。
- 位相が明らかに違いますよね。
- 違うんです。この二つの部分だけは、なんら説明もすること無く、核心の部分をズバッと出してきているんです。
なぜここで出てきたのかというと、『直毘霊(なおびのみたま)』のその前の部分で、中国の聖人と、聖人が説いてきた“道”というものを、容赦なく批判してきたわけです。その批判は、最後には陰陽二元による宇宙の成り立ちを説く「易経」にまで向けられている。易経まで批判してしまったことで、「天地の理」という根本的問題が、真正面に引き出されてくるんですね。宇宙というか、この世界の根本原理、なぜ世の中がこのように動いているのかというところを説明しようとしたのが、まさに易経なわけですから。だから、『直毘霊(なおびのみたま)』では、それを受けて、「そもそも天地のことわりはしも、」と続いているわけです。
ところが、この「天地のことわりは」という言葉は、宣長の“古道(いにしえのみち)”から見れば、まさに“漢意(からごころ)”そのものなんです。宣長は、それを承知でここに書いているんですね。
易経が言う「天地のことわりは」というのは、なぜ世の中がこのように存在し、変化していくのか、その根源にある原理、森羅万象、万物の一番の元を司っている仕組みということです。どうして。なぜ。そのなぜというものに対して、論理的な答えを与えようとしたのが易経なんですね。
だから、この言葉を一旦、ここで引き継いで、「すべて神の御所爲にして」という文章を導いてくる。この言葉で、次元が急に変わるんです。
- ここでいきなりボンッと出てくる。
- 要するに、「神」という言葉の捉え方によって、「直毘霊」の理解の仕方というのが全く変わってくる。いかようにも変化してくるということです。
肝心のこの「神」という言葉の実質が、時代によって大きく変化してきているので、近代以降行われてきた宣長の読みというのは、ほとんどが、その時代のインテリたちの持っている「常識」に染められた「神」解釈に引き付けられたものになっているんです。
- 自分自身が「神」として見ているもの。それでしか宣長の語る「神」という言葉の意味合いを見ていなかったというわけですね。
- だから、宣長がいう「神」というのは一体何であるのかを本当にわからないと、ここは読めないんです。だからここには、ある種次元の断絶のようなものがある。
ここを飛ばして読んでしまうと、、、、。
- それもまたずっとわからない(笑)
- この前も言いましたけれど、平面上にいくつかの点がバラバラにあるとして、それらが全て繋がってくる時というか、次元があると。その次元に到達する、一つの鍵が、まさにここにある。
- 重要な結節点というところですね。
- 「ここをどのようにあなたは読みますか?」と聞いただけで、この人は本当に宣長の言っていることをわかっているのかどうか、明らかになってしまうぐらいのところですよ。ここは。それでは、次回から「神の御所爲(かみのみしわざ)」というのは、一体どういうことなのかというところへ入っていきましょう。