Blog 本居宣長研究 「大和心とは」 : 『直毘霊』を読む・五(上)
- では、第五回ということで宜しくお願いします。
- それでは第五回ということで続けさせていただきます。
以前までの段、その最後のところで「物にゆく道」というものが出てきましたね。宣長が説いてきた「道なき道」とは、“皇大御国(スメラオオミクニ)”に伝わっている「古(いにしえ)の道」であり、それは「物にゆく道」と名付けることが出来るのだというところまで説明しました。
今回は、いよいよ中国における聖人とその聖人の説いた道について宣長が厳しく論じていくところです。いままでところと少し趣が変わって、ある具体的な形(=教義)を持った思想の一つとして、中国の聖人とその道について宣長が論じていくわけです。
まず「聖人の道」とは何かということなんですが、一般的に人格が人並み外れて立派な人のこととか、歴史的に素晴らしいことを為した人とか、素晴らしい教えを説いた人とかが聖人と思われていますが、ここで言うのは主に儒教における聖人についてなんですね。その儒教における聖人と、その人によって説かれた道について主に論じているということなんです。
ただ、ここで注意して欲しいのは、宣長の場合「聖人」と言った場合、具体的にその中国の儒家における「聖人」のことだけを指しているのかというと、実は違いまして、後々読んでくると分かってくると思うのですが、「聖人の道」というのは実は宣長から見るならば、先ほど言った「物にゆく道」という言葉を使うとするならば、「物にゆく道」以外の「道」はある意味ではすべて「聖人の道」になるんです。
- 宣長が生きていたこの時代で言うと、完全に儒教が江戸時代において大きな影響を及ぼしていた考え方だったわけですね。その儒教の聖人ということで「聖人」という言葉を使ってはいるものの、実際には儒教における「聖人」という限定的なものではなく、もっと広い意味での「聖人」ということなんですよね。
現代の日本語で言うところでの「聖人」。聖なる人という一種個人信仰的な形を持ったり。例えばそれが個人の思想であったりしなくても、ひとつの何らかの観念体系として共有されるイメージ。その共有されるイメージの中で何らかの観念・世界観を崇拝する。それを「聖人の道」と言っていると見ても良いのでしょうかね。
- そこがまさに言いたいところなんですね。宣長の言う「聖人」が説いた「道」というのは、実は儒教の道という概念だけに留まらずにですね、人が“私心(わたくしごころ)”、つまり自分自身の智恵で推し量って作った「道」のことを指すんです。 だから世にある様々な人の提唱した教えもすべて「道」ということになります。
- 逆に言うとそれは特に宣長が『直毘霊(なおびのみたま)』を書いたときの儒教に限ることではなく、いまの時代で言うと、明治維新以降、特に戦後において顕著になってきた西欧至上主義などの価値観を“洋意(ようごころ)”と言うならば、その“洋意(ようごころ)”もまた“漢意(からごころ)”の一種でしかない。そこそれ「聖人の道」であるととらえることもできるということですね。
- そうです。そこで捉えないと逆に宣長の言いたいところは見えてこないんです。先程も言ったように、宣長にとって「聖人の道」というのは“私心(わたくしごころ)”で作り上げられたものなんです。
宣長の言う「物にゆく道」、すなわち“神代(かみよ)”より積み重ねられてきた「事(こと)」の無数の蓄積の中から自ずから浮かび上がってきた「教え」ではなくて、ある特定の智恵のある個人の私的な体験や論理思考から生み出され作り出されてきた教え、あるいは思想。それを総称して「道」と称しているんです。これを別の言葉で定義すると「“漢意(からごころ)”による構築物」といえますね。
それでは、“漢意(からごころ)”とは何かということになりますが、『本居宣長研究ノート「大和心とは」』の第三回ですでに書きましたけれど、ここでもう一度“漢意(からごころ)”について説明しておきます。
“漢意(からごころ)”というのは宣長が『玉勝間』で書いてあるとおり、中国的な生き方や中国思想を好むこととか、あるいは中国思想で説かれている内容の事を言っているのではないんです。
ところが、宣長を初めて読まれた方や、その部分を詳しく調べていない方などは、“漢意(からごころ)”という名前だけに引かれて、何か中国思想の内実を言っているのではないかとか、中国思想を好んで振り回すことを“漢意(からごころ)”だと言っているのだろうと思ってしまうのですが、もちろんその意味での使い方もないわけではないんですが、本質的に違います。
宣長が『玉鉾百首』の中で、次のような歌を詠んでいます。
- これに対して弟子の本居大平が注釈をつけていて、“からこと”とは「漢流(からりゅう)の説」を言うのだと。すなわち、漢国(からくに)の人が何事につけても、これはこのような理屈でそうなんだとか、あるいはこれはこのような理由でそうなんだというように、何事にもまずその「理(り)」をとやかく定めて言うこと。それが漢国(からくに)における慣わしであり、“から説(こと)”すなわち“漢意(からごころ)”なんだ、と。
そこには、世の中のすべての「事(こと)」の背後には必ず「理(り)」があり、その「理(り)」は人智で知り尽くすことができるのだ、という無意識的な暗黙の前提条件があるのですね。
このように、“漢意(からごころ)”とは、すべての物事を「理(り)」で論じていくという、漢国人の心の奥底に深く染み付いている考え方や物の捉え方、世界把握の仕方のことなんです。あくまで思想内容の特徴のことではなく、漢国のすべての思想の奥底に共通して根強く存在している「ものの認識の型(かた)」のことなんです。そしてこの「認識の型」を持っているのは、何も漢国(からくに)だけではないんです。
- 一種の合理主義とも言える。
- 合理主義でしょうかね。主義というより、認識作用の奥底に深く染み付いている形式ではないでしょうか。主義は意識的なものですが、この形式は無意識的なものです。
実のところ、その「事(こと)」の「理(り)」というものを、本当に人間が知ることができるのかということについては、何の保証もないわけですよ。もしかしたらそのような「理(り)」自体が、そもそも存在していないかもしれない。
それなのに、とにかく何事にもその「理(り)」というものを第一に考えて、「これはこれこれの理由でこうなっているのだ」という形であげつらうわけですね。いつも物事の善悪や是非、物の道理を論じ続けている。この道理というのは事象の背後にある、われわれに理解可能な概念化された原理・原則のこと。これを常に論定していくわけです。
- それでいうと世界中に神話がありますよね。世界中に神話があるわけですけれど中国には神話がほとんど残っていないですよね。
- ないわけじゃないです。一部は残っていますよ。
- 一部は残っているけれどほとんどがなくなっていますよね。神話が無くなっていったその大きな働きをしたのが実は儒教の孔子ではないかという説も出ているみたいですよね。
- うですね。孔子よりもその前に儒教の礼学の基礎を作った周公旦という人物がいるのですが、その人ですね。宣長はそう見ていますね 。面白いことに、宣長は孔子については高く評価しているんです。歌まで作って賛嘆しているんです。古(いにしえ)の周王室を尊び、自らの祖国である魯(ろ)の国の「道」が廃れていくのを心から憂え、それを打開しようと奔走している孔子の姿に、宣長は嘘偽りのない「真心(まごころ)」を感じているようなのですね。
- 神話というのは脈絡のない、論理性のない世界をある意味では人間が理解しやすい論理体系へと組替えていった。
- それを全面的にやった最初の人が周公旦です。中国の場合だとね。
- その周公旦というのは孔子の広める儒教においてどういった働きがあった人物なのですか?
- 孔子が理想とした国、古(いにしえ)の周王朝を樹立した武王の弟で、成王の摂政として政を執ると共に、礼法を定め道徳儀礼・儀式を確立した聖人です。儒教における礼学の基礎は彼によって作り上げられたのですね。儒教では、そこを「道」の原理が明らかになった地点として大切にするんですね。あの孔子も理想の聖人として周公旦を慕い、周公旦が定めた様々な慣わしや風俗、すなわち道が廃れていくのを嘆いて、それを復古しようとしたのですね。
それだけでなく、儒教における宇宙論ともいえる「易経」も、周公旦がその作成に関与したといわれています。この過程で中国における上古の神話が「虚誕」「迷信」として破棄され、陰陽八卦による合理的な宇宙論に切り替えられていったと宣長は見ていますね。
漢意(からごころ)”の説明に戻りますと、今まで説明してきたように、漢国(からくに)の思想の奥底に典型的に存在する、何事も「理(り)」でもって論定していこうとする思考上の癖、これを“漢意(からごころ)”と言うんです。そしてこれは、何も中国思想だけが持っているものではなくて、仏教の母体であるインド思想はもとより、ギリシャのソクラテス以降の西洋思想、とりわけ欧米近代主義思想が最も強固に持っているものですね。
宣長は「それは、何も中国の本を読んだ人ばかりではない。本などというものを、一冊たりとも読んだことのない人でさえ、そうなのだ。」 (玉勝間)と言っています。それくらい当時の人たちには当たり前のものとして、いまの言葉で言うとグローバル・スタンダードとして、心の奥底に染み付いていたものなんです。
人は“漢意(からごころ)”というと、すぐに中国思想の内容を想像するのですけれど、実はそうではないんだということですね。だからこそ宣長は、仏教、道教(道家)、天主教(キリスト教)、伊勢神道、垂加神道、吉川神道、吉田神道、両部神道など儒仏の影響を受け特定の教義を作りあげた神道の四つについて、中国の代表的思想である儒教と全く同じ理由で論難しているのですね。これらは、宣長にとっては、“漢意(からごころ)”という意味で、完全に同一のものなんです。
- ということは少なくとも世界の宗教でいうと、中国というのが儒教という宗教であると捉えるとするならば、キリスト教も仏教も宣長の視野には“漢意(からごころ)”として入っているわけですよね。あと入っていないのはイスラームだけですね。世界宗教の中では(笑)
言うなれば「宗教」と呼ばれているものがすべて「聖人の道」である。
- そういうことなんです。特に老荘思想すなわち道家もそうだと聞いて不思議に思うかもしれない。道家というのは実は儒教を否定したんですよ。それこそ徹底的に。儒教の「道」と「聖人」の両方を否定したんだけれど、宣長が道家を論難するやり方はまったく儒教に対してのやり方と同じなんです(笑) 宣長から見るとこれも“漢意(からごころ)”なんですね。
- いま私が少し述べましたけど、世の中の「宗教」と呼ばれているものがすべて、「聖人」による“漢意(からごころ)”がすべて射程に入っているとしたならば、じゃあ「宗教」というのは一体何なのか。そのことをきちんと捉えなければならないと思うんですね。そこで日本に「宗教」というものがあったのかというと、日本には「宗教」という言葉自体がないんであって、明治時代に“ religion”の翻訳語としてやっと見つけた出してきた言葉ですよね。やっと見つけ出してきたということはそもそも「宗教」という概念自体がなかったと言っても良いのかもしれない。本当のことを言ってしまうと、宣長の言っている大和心、神道、神ながらの道は「宗教」とはやや違う。一般的に「宗教」とされている概念とは違うものであるとの指摘もできるということですね。
- そういうことです。ただ神道が「宗教」云々については後で採り上げましょう。で、本題に戻ると、その「聖人」が説いた「道」というものをただ単に中国の儒教の「聖人」が説いた「道」ということに矮小化せずに見ることができれば、宣長の「道」に対する論難の射程がとても深いことがわかると思います。宣長はあきらかに、「事(こと)」の背後に何らかの了解可能な論理に基づいた原理とか原則とかを無意識的に求めてしまう指向性のことを“漢意(からごころ)”と言っているんですね。
また「聖人」についても、『くずばな』に「もし聖人の非をいふが罪ならんには、儒者共の仏(ほとけ)をそしるは、いよいよ罪重かるべし。」といっているように、儒教の聖人のことだけを指しているのではなくて、仏教の開祖であるインドの釈迦も「聖人」なのですね。この点も留意する必要がありますね。
これはもう何度も繰り返すようですが、とても大切なところなので、もう一度まとめて説明しますと、“漢意(からごころ)”というのは、何も中国の儒家の思想を好むとか志向するとか、何事もその思想に基づいて考えることではなくて、この世に存在するあらゆる人造の原理やイデオロギーに基づいた概念規定のみならず、倫理的・道徳的な当為概念、すなわち「こうするべきだ、こうしなければならない」といった様々な戒律に至るまで、「物(もの)」や「事(こと)」に外側から付着して、「物(もの)」や「事(こと)」を規程し限定化して、概念や観念として実体化する全ての認識方法を“漢意(からごころ)”というのです。
だから「聖人の道」とは「“漢意(からごころ)”による構築物」という定義が一番ピッタリしている。加えて、その「道」は、聖人といわれる人の「私心(わたくしごころ)」によって、抽象的・論理的に作り上げられたものなんだということ。自分の個人的体験に基づいた私的な智、すなわち一己の限りある知恵で作ったものであるということですね。
「聖人の道」を決して儒教の枠内に閉じ込めないで、“漢意(からごころ)”による抽象的・論理的構築物という観点で、これから述べる宣長の話を聞いて欲しいですね。
ところで「宗教」にもいろいろとありますけれど、「創唱宗教」という言い方を聞いたことがありますか?この創唱宗教とは、教祖が創って唱えた宗教ということです。その典型的なものが、キリスト教やイスラーム教といった一神教なんです。仏教も釈迦という一人の仏陀(=教祖)が出て、法(=教義)が説かれたことから、創唱宗教といえるでしょうね。
- 一番最初に誰か、その「宗教」の教えを説いた人が誰かが「一人」いる。
- そういうことですね。もちろんその前に様々なその源流となる思想はあったし、そこの土地や風土にその思想が出現する土壌があったんでしょうけれど、最終的には「一人」の教祖が出現することによって新たに始まったものです。
- だけどその「宗教」というのは世界の三大宗教と呼ばれているのは全部そうですよね。
- そうなんです。いまわれわれの世界を覆っているものは「創唱宗教」なんです。
- 逆に考えてみると世界の三大宗教が成り立つ前、それ以前に「宗教」というか何か大きな存在に対して「可畏(かしこ)き心」を持つ物の見方がなかったのかというとそうではないですよね。
考えてみると実際、「宗教」つまり「創唱宗教」と呼ばれているものが人類の歴史の中で出現したのはたかが2000~2500年ぐらいしか経っていないんですよね。
- だからこの「創唱宗教」を言い換えるのに良い言葉があるなぁと思ったのが「世界宗教」。「世界宗教」という言い方で考えると非常に良くわかるかなぁ、と。世界の様々な文化の壁を超えて、一つの絶対的真理として様々な国で信奉されている「宗教」ということで捉えても良いのではないですかね。
それでは、ここで「聖人」と「道」というのを、世界宗教の「教祖」と「教義」にそのまま当てはめて考えてみましょう。「教祖(=聖人)」がいて、その個人的体験に基づいて「教義(=道)」を作り上げた「宗教」というものを、宣長のいう“漢意(からごころ)”という観点から考えてみたいんですね。するとこれらには、いくつかの共通する特徴があることがわかります。
中国における「聖人」の「教え」もそうなんですけれど、これら世界宗教は、一人の教祖の個人的ひらめきから発生しているのに特徴があるんです。それが第一のポイントです。
では、その個人的ひらめきはどのような状況で発生しているのかというと、ここが面白いんですけれど、どれも共通しているのは、まずは教祖自身が日常にはない非常に特殊な精神状態を体験している。仏教でいうと「悟り」とか。あるいは「神の声」「神の啓示」が聞こえたとか。こういう「覚醒体験」をよく「世界没落体験」と言いますね。具体的には、仏教などの悟り系の場合だと、瞑想や苦行によっておこる覚醒のことですね。
つまり一人の教祖が生きてきた中で、ある覚醒体験をした。その個人的体験から得られた何らかの悟りだとか啓示とかを元に、そこから抽象的かつ論理的な思考を駆使して一つの完結した教義を組み立てたんですね。すなわち一つの世界観を作った。それは個人と世界の救済に関する観念体系という形で成立しているわけですね。もちろん教祖が全部やっていった場合と、弟子が共同でやった場合がありますね。それでもそれを最初に創唱した人、唱えた人が教祖ということです。
創唱宗教とは、このように個人の知恵によって独力によって作り上げられたものなんです。
- 逆に言うとそれはひとつの地域、または集団の中からいつの間にか経験の中から醸成されて重なってきた「教え」ではないということですね。
- そういうことです。源流を辿るならば、個人の心の中で起こった体験ですね。
- いわゆる神秘体験と呼ばれるものですね。
- 神秘体験と呼ばれるものには、神の言葉が聞こえただとかね、いろいろなパターンがありますよ。ただ大まかにいうと、神の声が聞こえたというのも悟りというのも、神秘体験であると言うことができるでしょうね。
ただし儒教における「聖人の道」は、神秘体験というのとは少し趣が異なるので、「神秘体験」という言葉はあまり使わない方がよいかもしれません。しかしながら、個人のひらめきや知恵から始まったということでは、世界宗教と全く同じであるということです。このように「聖人の道」に限らず世界宗教の教祖たちが唱えた教えも、その出自というのは非常に似通ったものなんですね。
次に第二のポイントとして、これら創唱宗教の教えは、普段の日常生活の中から生まれたものではない。要するにこれらは、普通に生きていた人が、普段の生活の中で感じとり、提唱したものではないのです。
特に「神の声」が聞こえただとか、神が現れただとか、「宇宙即我」の悟りだとかね。このような覚醒体験をする前に、その教祖は、肉体的にも精神的にも生活共同体から隔絶された場所で、ある独特な心理状態になっているのが共通していますね。特定個人のある種尋常でない状態から生じた、特異な観念から生じた。
- 言うなれば気が触れた状態になっていた(笑)
- (笑)
求めるているものが普通の生活者とそもそも違う。それは生活の中でのある状態、好ましい状態とかを求めるのではなくて、そういった日常生活とかを超えた「超越的な価値」を、ひたすら求めているんです。
- そういった「宗教」をやっている人たちにおいて共通しているのが自我の危機ですね。
- 世界没落体験というのは自分の自我が崩壊する直前ということですよ。そのように追い詰められた、非常に特殊な状態なんですよ。イエスの荒野での四十日間の断食、仏陀の六年の苦行とかも有名ですよね。様々な苦行という形。肉体的にも精神的にも極限的状態。まったく人々の生活、共同体から外れた場所で一人孤独に悶々と。
- ある意味では異端児ですよね。
- 異端という言葉の定義にもよりますが、普通の生活者ではないことは確かですね。 人間の生物としての生存本能すら顧みないで、「超越的真理」に突き進む人たちですからね。
- 本来、自らが属している集団からは完全に異端児ということですよね。
- そうですね。そのように特殊状況での覚醒体験というものは、何度も言うように、日常の生活の中でたびたび体験するようなものではなくて、非常に稀な体験。普通の人では到底体験できないようなある種異様な体験ですね。そこで得られた悟りの内容とか、聞いた神の言葉というのも、われわれの日常の次元では収まりのつかない、非常に超越的な、自分達の人生だとかを越えて、この世の存在理由までも射程におさめた「教え」なんですね。
そういうことで言うと形而上学という言葉があります。実際の形而下を超えた形而上の世界まで論理的に説明し尽くそうとする「教え」。それは具体的にわれわれが実証したり、確認したり、実際に目で見たり、手に取って確かめたりすることのできないもの。そういったものに最終的な価値を置いているわけですね。
ここで創唱宗教の特徴に話を戻しますと、第三のポイントとして、覚醒体験の起こる直前の教祖達は、この世に存在する救いようもない不幸や苦しみ、善人が苦しみ悪人が栄える不合理や矛盾、不正などを極めて敏感に感じ取り、心に深い絶望と、この世に対する強烈な虚無感を懷いているということです。一言で言うと「何故に世界はこうも苦しみに満ちているのか?世界は一体何のために存在しているのか?無意味ではないか?」という思いですね。
だから、そこから生まれた教義は、勢いこの世のありとあらゆる不幸や苦しみを一挙に救済するに足るだけの圧倒的な力を持った救世主的存在(=唯一絶対神)や救済原理を、必然的に有してくるのですね。そしてその強力な力で、世界から悪を根絶し全てを善一色に塗りつぶそうと、他の大勢の人々を巻き込んだ大衆運動にまで発展していくのです。
ですからこれらはある意味、ありのままの現実世界をそのまま受け入れることが出来ず、それを嫌悪し絶望した果てに行きついた教祖個人のニヒリズム(虚無主義)を動機として生み出された「教え」と言ってもよいかもしれません。そのためか、これらの「教え」では、世の中の自然状態や一般の人々の日常生活を厭離したり嫌悪して、一段価値の低いものに位置づける傾向がありますね。
ところで人間には、すべての動物が持っているのと同様に、生まれながら持っている生き物としての生存本能というのがあります。ご存知の通り人間は一人では生きていけません。複数集まって共同体を作り、社会を営んでいかなければ生きていけない生き物なのですね。そのため、共同体を作りそれを維持・発展させていこうという本能を、誰から教わらなくても、生まれながら持っているわけです。
例えば、よく宗教でも「愛」とか言いますよね。特に創唱宗教では「愛」こそ最も大切なんだとか。これを、人間の生存本能という面から見るならば、近くにいる人を愛して、愛着を持ち、それを守り育てるというのは、共同体を維持するために必須のものであって、必要だから生まれてきたものです。すなわち根っから自然発生的なものなのですね。詳しくは『本居宣長 研究ノート「大和心とは」』第七回・第八回に書きましたが、そのような生存と共同体維持の本能に基づく、生き物本来の自然な心のあり方・動き方。宣長はそれを“真心(まごころ)”と名付けています。
ところが創唱宗教の唱える「愛」はその“真心(まごころ)”ではないんです。それはあくまで一人の教祖によって教義上の実践目標として概念化された「名目」なのですね。教祖が唱えたとたん観念化し、実質は失われているのです。信者はそれを「教祖の言葉だから真理である」というロジックで、そのまま実践目標として丸呑みする。そこには信者個人の、人間という生物としての生存本能から自然に発したもの(=真心)は何もなく、ただ教祖によって与えられた抽象的な論理、すなわち当為概念のみ存在するのですね。まさに「名」のみあって「実」がない状態。宣長のいう「私心」に基づく“漢意(からごころ)”そのもの。
こういう「愛」はある意味、とても恐ろしい。教義上の意味づけや対象が変われば、一転して「怨念」に変わってしまいますから。「愛」を説く一神教における、異教徒に対する激烈なまでの攻撃性と残酷さはその典型でしょうね。
- “真心(まごころ)”ということから考えると異端の状態から発した考え方だということですね。
- まぁ、そうハッキリ言われると…(笑) むしろそういった人間本来持っている自然な心のあり方を、ある意味で破壊する。彼らは良くするために破壊すると言いますけど、それらを破壊して特定の視点から新たに作り直そうとするものなんです。朱子学では「新民」すなわち「民を新たにする」といいますね。以上いろいろ述べてきましたが、“漢意(からごころ)”による構築物としての「聖人の道」。各教祖が説いたもの、すなわち創唱宗教における教義には、全体的にその傾向がある。
ところで、先ほど「創唱宗教の唱える愛はその“真心(まごころ)”ではない」といいました。これは『本居宣長 研究ノート「大和心とは」』第七回・第八回にすでに書いたことなんですけれど、その“真心(まごころ)”というのは何なのか。宣長によると、それは「産巣日(むすび)の神」によって、人間が誕生するときにあらかじめ与えられているもの、というのがその答えなんですね。
宣長は『くずばな』に「生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆(みな)真心を失うのである」と書いています。この“真心(まごころ)”を失わせるものこそ、実は“漢意(からごころ)”なのですね。つまり、生まれついて持っている心を変えていくことが、“漢意(からごころ)”に覆われるということなんです。だから“真心(まごころ)”というのは“漢意(からごころ)”を取り除いた“心”と言い換えることができるんです。
宣長に言わせると、まさに「聖人の道」、この「聖人の道」には儒教だけでなく仏教も入るし、キリスト教も入るし、道教も入るのですが、そういったものは皆、生まれ持っている“心”を変えるものだと。生まれ持っている“心”とは“真心(まごころ)”のこと。それは「物(もの)」にふれて、自然に動く“心”。それを自然に動かさないように作り変えていくものこそ、「聖人の道」なんだということなんですね。
たくさんの道徳の条目を作って、あるいは戒律を作って「このような心は持ってはいけない、このような心を持たなければならない」と厳しく外側から律していく。儒教で言えば、仁義礼智、忠信孝悌とかね。様々にありますね。仏教にも基本的な五戒がありますし、他の創唱宗教も内容は多少変われど、同様なものがあります。
これらは、人間が生まれたまま持っている自然に生まれついた“心”を、ある一定の観点から作り直していこうとする。だから、自己を含む家族や一族、それらが属する共同体を弥栄(維持発展)させていくということに最終目標を置くのでなく、世俗を越えた超越的な価値の方へ重点を置く。
生き物としての人間に最も大切なもの。それは動物を見てみれば分かるように、自分達の子孫を残すことと、一族が繁栄していくことですね。そしてそれらは、最終的に人間という種族が繁栄していくことに繋がっていく訳です。しかしながら、創唱宗教は違います。そんなところではなくて、それらを超えたところの形而上的真理の実現を何よりも優先するのです。その「真理」さえ実現すれば、子孫・一族の繁栄などは、ほっておいても後から自動的について来るという風に考えるのです。
- 楽に生きたい。いまを幸せに生きたいということよりも「価値」に殉じる生き方というのを重視する。
- そういうことです。その「価値」はどこから出てきたかというと、一人の教祖が特殊な体験をして、それを基に作り上げられた「理(り)」からなのですね。その「理」は、初めはとてもシンプルなものでしたが、時と共に多岐にわたり複雜化して、最後には壮大な宇宙観として体系化されていったわけです。
人間は生まれる前はこうだった、死んだ後はこうなるとか。この世で為した行為は死後このように清算されるとか。自分たちの信仰上の行為はこのように報われるとか。
それらに対して誰もが納得できる論理的な説明、意味付け、価値付けを行なっていく。多くの信者を納得させるためには、そこがどうしても必要になってくるから、教義面でどこにも穴がないように、抜けている部分はその都度その都度補って整備していく。それは教祖だけでなく、その弟子たちも含めてね。時間をかけて、その作業を継続していくわけですね。それが一応全部できたところで、ひとつの宗教として世間から認められるわけなんですけれど。
- 一番初めにOSとして幹の部分が提示される。教祖によってですね。それにどんどん弟子たちがアップデートを付け加えていく状態ということですよね(笑)
- そうですね。それによってどんどんバージョンアップしていく。体系的に抜け目のないものになっていくわけ。
- だからそのアップデートを繰り返していけば繰り返すほど非常に安定性の高いOSになっていく。
- どのような質問や疑問に対しても、信者が様々に持つ生活上の疑問に対しても、非常に明確に、心から納得できるよう答えることができるようになる。すなわち、その土台になる世界観と、問題解決の具体的処方箋を提示することができるようになっていくということです。
- FAQが充実していくわけですよね(笑)
- (笑) ここが上手くできないと人々は離反してしまう。「これに対してはどうなんですか?」といった質問に、「そんなことわからないよ!」ということになってしまうと不安になってしまうわけですよね。信じる人たちは。
当然そのような不安がないように、あらゆる面から見ても隙がないように、教義を整備していくわけです。ある種の理論武装ですね。その結果「教典」が編纂され、「教祖」と「教典」がペアになって、それに「信者」が加わる。この三つが相まって「教団」ができあがるわけです。
- しかしその「教団」という歴史は、今に残っているものではせいぜい2500年ぐらいしかないですよね。
- 人間はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか。何らかの使命を持っているのか。われわれは本当のところ、何をすべきなのかなど。人々が考えても到底わからない事柄に対して、快刀乱麻のごとく最終的な答えを提示する。そのために、教祖個人の特殊な体験をもとに、論理的にも矛盾のない一つの完結した体系を整備した。これが創唱宗教、世界宗教と呼ばれているものに共通している性格なんです。
- そういった宗教の共通点として、“教え”とか“真理”とか言いますけれど、それを自分自身が全面的に会得できたとするならば絶対に幸せになれるんだということを盲目的に信じていますよね。
- そうです。だから信者からするならば、教祖の体験は絶対であり、唯一無比なんです。この世の中で、不幸になるか幸福になるかの決定的分かれ目というのは、普通の人にはなかなか分からない。その肝心かなめの幸福になるポイント。そこさえ抑えれば、不幸から永遠に脱却することができ、最終的に人々は救われるというポイント。それを教祖が自らの絶対的体験から発見したのだと。これを信じることこそ、教祖を信じることであり、その宗教を信じることなんですね。
故に、その体験内容とそこから得られた「理」に説得力がないと、教団は滅びてしまうんです。何よりもその体験の迫真性、神秘性に裏付けられた教祖の言葉の説得力こそ、信者の帰依をつなぎ止める命綱なんだということです。
- その点でいうと、「真理を得る・教えを会得する」=「幸福になる」で考えているのでしょうけれど、それは宣長が言っている“真心(まごころ)”、“大和心(やまとごころ)”の視点から見ると、なんでそれがイコールにできるの?というのがそもそもの疑問としてありますよね。
- そうななんです。わたしがまとめで言おうとしたのは、まさにそのところなんです。この聖人の教えなり教祖の教えをよく見てみれば、その教えの肝心かなめは、最終的にここさえ押さえておけば救済が起こるという言説部分にあるんです。この世の中を完全に救うことができるというポイントはこれなんだ、という言説ですね。それを確実にしているのは何なのかというと、さっきも言ったように、その教祖の「個人的な体験」なんです。その一点しかないんですよ。これはね。
宣長に言わせれば、これはまさに“私心(わたくしごころ)”であり、“公(おおやけ)のもの”、すなわち一切の「漢意(からごころ)」なく「真心(まごころ)」のままに「実(まこと)の位」にある人が、「こうやったらこうなった」という事跡(実物)の数限りない集積の中から、一切の私智を超えて、自ずから浮かび上がってきたものではない。ちなみに宣長は、この“公(おおやけ)のもの”を、「神の御所為(みしわざ)」「神代の古事(ふること)」「神の道」とも言い換えていますね。
とすると、問題はその教祖の個人的体験で得られた知恵がどれだけ確実であるのか、ということになってくるわけですよ。で、もしもその智恵が本当に完璧であって、現在・過去・未来の三世と宇宙のすべてを貫き通すぐらいの深みを持ったものであるならば、それは信じてもいいのかな、と(笑) そのように思うかもしれませんけれど。でもその確証はどこにあるのか、どこで得られるのか、どうやってそれを知ることができるのかというと、実は信者にはそれを確かめる手段は、
- ない。
- ないんです。なぜかというとそれは「個人的な体験」だからです。
だからどこまでいっても信者には確認することが難しい。さらにその教義は、今生きているこの世のみを対象としているものではなく、 死後の世界をも射程に入れたものですから、最終的にそれが正しいかどうかは、死んでみなければわからない。そういう構造になっている。「神の審判」や「復活」、「神の国」にしても、「マハーパリニルヴァーナ(大般涅槃)」にしても、実際は気の遠くなるような未来のことですから。
- (笑)
- それに、そもそもその智恵というのは、本当に無限のものなんですかね。また「真理」って何なんですかね。
少し話はそれますが、聞くところによれば、犬には色覚がないということです。その犬に、人間が「物には色のあるのこそ世界の真理」と唱えて、犬に「色の識別」を口酸っぱく教えて躾けても、犬は永久に理解できないでしょうね。「色」という概念自体、想像すらできないんじゃないですか。逆に人間に「コウモリの聞こえる超音波の世界を認識しろ」と要求しても、絶対に不可能でしょう。それとも智恵の力があれば可能になると言うつもりなんでしょうか。
これはあくまで比喩でいうのですが、仮に二次元の平面世界に住むネズミがいたとして、そのネズミに、三次元空間の概念である「壁」の存在を認識しろと要求したとします。このネズミが「聖人」なみの智恵を持っていたとしても、それは全く不可能ですよ。人間にとって「真理」というものも、二次元の平面世界に住むネズミにとっての「壁」のような存在かもしれませんね。私は、俗に言う「真理」というものがあったとしても、それが人間の理解できる“論理構造”の次元に収まるものとは到底思えませんね。
そもそも認識作用自体に、その生き物の感覚に即した固有の限界がありますからね。人間の認識能力も当然、この限界を持っているものと考えるのが普通でしょう。とすると、人間は自分の感覚で認識できる次元(例えば時間と空間)を越えた存在は、いくら智恵があっても認識できない、ということです。ところで一神教では、古来より神(God)は時間と空間を越えたものなんでしたね。すると神(God)は、人間にはそもそも認識できない、ということになりませんか。
世の中には、視覚のない生き物、聴覚のない生き物など、さまざまな生き物がいますよ。それぞれが、自ら生まれ持った感覚器官を通して、色々な「世界」を立ち上げ、リアルに感じながら生きているわけです。その中で「どの世界が絶対的真理か」というように考えること自体、何の意味があるのでしょうかね。
- さらに、その智恵を得ると幸せになれるのかどうか。智恵を得ることと幸せになるということとは、
- イコールなのかということです。
- それは正直言って、話は別の問題ですよね(笑) つまり真理を得るということと幸せに生きる。幸せに生きているということで言うならば、飼っている犬とか猫とかは毎日、楽~♪に生きているわけですよ。あれこそ本当の悟りに一番近いわけですよね。だけれど彼らはそういった仏教の教えとか知らないわけじゃないですか。宗教というものが、人間としての“真心(まごころ)”の、生き物としての“真心(まごころ)”の中でその“真心(まごころ)”のそのままの状態で幸せに生き続ける。それが重要なことであるとほとんどの宗教は言っているのでしょうけれど。それでいうと飼っているペットの犬や猫たちのほうが、あれこそ本当の悟りなのであって(笑)
そこのところを教えを得て幸せになれるのかどうか。それを保証しているのは実際には何もないんですよね。
- そこがまた非常に巧妙でしてね。今あなたがいわれたようなことは、多くの人から指摘されるかもしれない。そこで基本的な戒律項目、すなわち信者の信仰実践のおける義務というものを作ってくるわけです。仏教にしてもキリスト教にしてもイスラーム教にしても、行動面や心理面で様々にありますね。
その宗教を信じているならば、これをしてはいけませんと。人を殺してはいけない、盗みをしてはいけない、嘘をついてはいけない、邪淫をしてはならないとか。どの宗教でも、これらをその宗教に入る初門としているわけです。
そうすると、宗教を奉じた人たちは皆この初門から入ってきますから、まず第一に、この義務というか戒律のようなものをしっかり守るわけです。当然それをやると、今までの自分とはうって変わったように、生活上のみならず、精神面でも、とても良い結果が出ることがあります。そうすると、「この教えを信じたから何事もすごく上手くいくようになった」とか、「周りの人が自分のことを違う目で見るようになった」とか、自分自身が人間的に成長していることに気づく。
これはある意味では当たり前ですよね。この基本的戒律というのは、言っていることはどれももっともな事で、人々がこれを守れば、当然共同体の生活はうまくいくでしょう。人々の暮らしは平穏になるし、個人的にも、周りの人から悪く思われないだけでなく、むしろ尊敬され信頼を得ることができる。当然結果も出る。至極あたりまえなことですね。
何故なら、人を殺してはいけないとか、盗みをしてはいけないか、嘘をついてはいけないとか、邪淫をしてはならないとか、そういうことは、別に教祖が説かなくても、昔から共同体の中で人々がうまく生活していくためには、当然備えていなければならない資質だからです。
ところが信者は、それを「この宗教を信仰したからこそ良い結果が出た」と信じてしまう。「やはりこの信仰は絶対的に正しい。これからもこの教えを信じて実践していけば、永遠に朽ちることのない完全な幸福を得られるし、この教えを広く流布していけば、教祖の言うとおり、世界の究極的な救済も成し遂げられるのだ」と信じてしまう。これは、実のところ飛躍なわけですが、このように多くの信者は、その教えを疑うことなく実践して行きさえすれば、教祖の教えの最終段階である「世界の究極的な救済」も、必ず実現できるに違いないと信じてしまう。
初門としての基本的戒律のようなものは、誰がどこで実践しても良い結果を得られる内容を説いています。人を殺してはいけないとか、嘘をついてはいけないとか、邪まな行いはしてはいけないとかね。それは別にある特定の宗教だけが説いているものではなくて、ほとんどすべての宗教で内容的にも共通しているんです。そもそもこれらは、昔から社会の共通倫理になっていたものを、宗教が借りて来たに過ぎません。
しかし、この基本的戒律をはじめとした初門の教えと、教祖の説く最終的な「未来における世界の完全救済」に関する教義は、そもそも全く異なった性質のものです。一方は共同体の発生時から長い歴史の検証を経てきたものであり、かつ生活上で信者がその正邪を検証できるのに対し、一方は歴史的検証もなければ、信者の短い人生では、とてもじゃないが検証不可能です。
社会の共通倫理に過ぎない当たり前のことが、教組が「それが究極の救済につながる」と語ったことによって、圧倒的な説得力を持つ。信者たちはそれを固く信じて懸命に実践して行くわけですね。すると当然、人格的に素晴らしい人間が生まれたりします。信者は、心の中で充実感を感じ、徳が増しているのではないかと信仰に対する確信を持つようになる。
問題はこの確信が最終的に、各教組の説く「超越的な価値」に対する信頼に転化される構造があることなんです。先ほども言ったように、そもそも教祖の覚醒体験が本当に世界をすべてを明らかにしたのかどうか、またその「究極的真理」を悟ることがイコール幸せであるかということは、全くもって不確かなんですが、信者には、初門としての基本的戒律を実践し結果が出たという確信があるので、教組の説く「超越的な価値」に対しても絶対の信頼を持つようになってしまう。
- 繋がるようにいつの間にか世界観に取り込まれてしまうということですね。
- そういうことです。だから、信者自身が初門としての基本的戒律を実践したことによって人間的に成長したという確信が、実はまだ体験していない最終的救済(解脱)だとか、その宗教独自の、共同体を維持していくための道徳とか倫理を超えた「超越的価値」を信じてしまう原動力なんです。神の国の実現だとか。復活だとか。あげくは地獄に落ちるだとかね(笑) これらは全くその真偽を検証しようがない。でも信じてしまう。この構造はどの宗教にも見られますね。
宣長に言わせるならば、もっともらしい実践項目(戒律)を仰々しく並べているけれども、そのようなものは生まれながらに持っていなければ人は生きていけないし、共同体もうまく運営していけないんだと。そしてそういったものは、無理やり人に押し付けたり、あるいは概念化し実践目標として掲げた瞬間に、実はとんでもない問題を引き起こすのだと。このように宣長は言っているわけです。
これは前にも言いましたが、「聖人の道」あるいは各教組が説いた創唱宗教の教義は、もともと教祖の個人的覚醒体験から発したものなんです。それは共同体の中での切磋琢磨、すなわち人々との日々のふれあいの中から自然に滲み出ててきた智恵ではなくて、世俗を超えた超越的観念の実現を目指し思索するところから出てきた個人的智恵なんですね。
問題は、このような特殊な過程で生まれてきた個人的智恵が、人々が日常生活を営む共同体に本当にうまく適合するのかということなんです。それを確かめるには、過去の歴史を検証する必要がありますね。
キリスト教を例にとると、その教えが生活の細部まで最も深く浸透した時代というのは、ご存知の通り、ヨーロッパ中世です。「暗黒の中世」とよく言われていますね。
- 歴史とその時代自体の状況を複視眼的な視野で見るとどう考えても中世ヨーロッパは世界の中でもド田舎の野蛮な地域で、アラブ文化を遠くから羨望の眼差しで見やることしかできない場所だったと言えないではないんですけれどね(笑)
- 一部の学者は、中世は暗黒ではなかったと、見直しを試みていますがね。ただ、キリスト教の教義というものが人々の生活の隅々にまで、「宗教=社会・文化・慣習」といえるぐらいまで浸透した時代というのは、あの時代しかない。
そしてその中世の社会において、これは教会や修道院などで特に顕著ですけれど、「性」に対しての異常なまでの罪悪感、嫌悪感が出てきた。人間が本来持っている生理現象としての性欲だとか、肉体的快楽を求める様々な欲望に対し、極端なまでの否定、切捨てが起こった。これは神父などの聖職者の中だけでなく、社会の各階層の人々の間でも、程度こそ異なれ似た状況だった。「禁欲」 というものが、キリスト教の教義の影響で、広く人々に奨励されたのですね。これにより人々の心に、「性」は「汚れたもの」「罪深いもの」という意識が深く根ざすようになった。
キリスト教圈では基本的に、生殖目的以外の性交は「罪悪」である、という強力な 価値観がある。夫婦間の性交でも、快楽を感じたらそれは「罪」となる。実際に、四世紀の神学者アウグスティヌスは、原罪と性欲を同一視する解釈を行い、「性」を媒介に罪が全人類に及んでいると考えたほどです。
このように、教祖の個人的智恵から生まれた教えが、人々が営む社会生活のみならず、人間が生まれながら持っている本能に大きく抑圧を加え、無理やり矯正させようとした。これは現実に過去の歴史で起こったことです。共同体にうまく適合しているとは到底言えないでしょうね。人々の本能に適合せず、不自然だったからこそ、その後ルネサンスという大きな揺り戻しが起こったのでしょうから。
- 「心において姦淫したるものはすでに姦淫したるものなり」との言葉がありますけれど、もちろん好きな娘、可愛い娘を見ればそのような心持ちになるのは自然なことですよ(笑) 逆にその部分を全面的に否定して「原罪」という言葉を出してその疚しい心を否定する。もちろんその心が疚しいことは否定しませんが(笑)
それを大上段に構えて全否定してくる。人間本来、生き物としての本来の子孫繁栄を願う心から見ると、実はそれは子孫繁栄を願う生物、共同体に対しての呪いの言葉なのではとの気もしますね。確かにそういった行き過ぎた欲望は問題視されるべきものでしょうけれど、なぜにそこまで必死に否定してくるのか。それはその教えを説いた人々が必死に否定しないと自分を成り立たせることができないほど蒙欲に犯されていたということの裏返しだともいえないのではないかという気もしますね。それだけ限度を外れた、異常状態であるが故とも言えないでもない。正確に言うと異常状態で過敏になっているからちょっとした刺激が蒙欲へと燃え上がってしまう。そのことに対しての恐怖感。
- 仏教においても、原始仏教に最も近いとされる南伝仏教(上座部仏教)の比丘の戒律を見てもらえば、227項目にも及ぶ比丘の守るべき厳しい戒律(具足戒)がありますね。もう生活のきめ細かなところまで、人間の性欲や肉体的快楽を求める欲望を徹底的に抑えようとする。実際の肉体的行為だけでなく、心のそのような動きも全面的に禁止するわけです。
社会生活においても、「産めや育てよ」というのは絶対に言わなくて、家や財産、家族を捨てて出家することが、最も高く評価される。何よりも大切なのは個人の解脱であって、一族の繁栄や社会の繁栄は二の次なのですね。<
イスラム教でも、イスラム革命後のイランや、宗教警察の存在するサウジアラビアを見れば分かる通り、性的なものはとても厳しく規制しています。ポルノなど所持しているだけでも重罪ですね。ただイスラム教は、教祖ムハンマドが商人だったこともあり、他の創唱宗教と比べて、より現実的と言うか世俗的というか、社会生活に対する配慮がある程度あります。けれど、イスラム国家ではシャリアー(イスラム法)が生活を隅々まで規定していて、信者はそれを厳守しなければなりません。成人女性が顔を出して、派手な格好で町を歩くことなど、ご法度ですね。
このように、創唱宗教では、人間が本来持っている欲望というものに対して罪悪視するという共通の傾向がありますね。むしろ、その発動を極度に恐れて、戒律のようなもので縛っているのではないのかと思うんですね。
- 少なくとも「1000人殺すなら1500人産む!」という発想は、創唱宗教からはなかなか出てこない考え方なんでしょうね(笑)
- 社会の繁栄だとか、人々の、共同体の繁栄・安寧などとは異なる次元の超越的価値を求めていますから。それは別に今世だけに止まらず、来世や未来、われわれが死んだ後も含めた長い長い期間に亘って、追求し続けなければならないものですね。少なくとも現世において片付く話ではないですから。
だから当然、そういった長期的かつ超越的価値を求める視点から逆算して、われわれの本来持っている様々な欲望に対して、厳しくメスを入れてくるわけですね。特に性欲などは極端なまで抑えつける。
それはキリスト教しかり、仏教しかり。儒教においてもそうですね。「聖人」というものは道徳的に絶対間違いを犯さない、人々もその完全性を目指すべきだと。そのために、心の持ち方や行為を厳しく律して行く。
- まだ儒教なんかは、「社会」というものがどれだけ幸せになるのかということに対しての関心が非常に大きい「教え」であることは確かじゃないですか。だけどそれ以外の創唱宗教においてひとつ言えるのは、確実に言えるのは、「社会全体」が幸せになるということよりもまずは「自分」が幸せになりたいというのが至上価値になっていることと、なぜ自分達の考えている価値が正しいのかということについて、いまの日常の世界からは出てこない上位価値。
- そうです。前にも言いましたが、これらはある意味、ありのままの現実世界をそのまま受け入れることが出来ず、それを嫌悪し絶望した果てに行きついた教祖個人のニヒリズム(虚無主義)を動機として生み出された「教え」ですから。その底には当然、教祖個人の救済願望が強く横たわっているでしょうね。覚醒後それは、自らを「世界の救世主」 とする自負と、「天上天下唯我独尊」すなわち自分が「世界の王」であるとする自負に変わったでしょうね。信者もこれと似た意識でしょう。自分の魂の救済こそ、究極の目的ですね。
- それを必ず提示して、それが絶対に正しいから「いま」の現在は間違えているとの考えを必ずやるということですね。それはある意味、「自己」が意識化されない限り発生しない考え方であるというところも指摘しなければならないと思うんですね。
- そういうことです。だから現世とまったく次元の異なるところに架空の理想世界を作っておいて、その観念世界を基準に逆に現在を断罪をするというか。理想とする世界構造と現在を無理やり重ね合わせるわけですね。それによってその差を強引に矯正をする。力ずくでも直そうとする。だからこそ、性欲をはじめとした、人間の本来持っている基本的な欲望まで、戒律などで出来るだけ抑制しようとするわけです。
そしてこう言うわけです。「世俗的欲望を完全に押さえこむことは、現世において確かに苦しいかもしれない。しかし、最終的にもっと高い次元で見るならば、これは魂の救済の過程なんだ」と。こうやって魂を浄化していくのだとか。これは神に近づいていく唯一の方法だとか、悟りに近づいていくのに不可欠だとか、様々な宗教において色々と言うわけです。
厳しい修行というか信仰実践に対して、それが必要である裏づけをしっかり用意している。信者に厳しい戒律や信仰義務を守らせる教説・教理をあらかじめ準備しているわけですね。
- つまり、世界観を用意している。
- そういうことです。それさえあれば、どこから突かれたって大丈夫。信者はその世界観の中で生きて行くわけですから。
だから、逆から言うならば徹頭徹尾これは人間が作ったものなんです。宣長が強調しているのはまさにそこなんです。
人間が疑問に思うこと、絶対にわからないもの、どのような手段を使っても確認できないことに対して、その答えをはっきりと提示するために、むしろ後付けで世界観を作っていったと言ってもいいぐらいですね。
仏教も見ても、その気がちょっとあるわけです。原始仏典によれば、釈迦自体は死後については判断停止というか、はっきりと述べていないのですが、それが上座部や説一切有部の論蔵(アビダルマ)になると、釈迦の説いた教義に合致するように、死後の世界はこうなるのだときめ細かにすべて明確に書かれていて、特に上座部では、それが仏陀の言葉、仏陀の金言ということで、絶対に間違いのないものとしてパーリ聖典に取り入れられているのですね。
- 逆に言うとすべてが理屈でわかるということですね。
- そういうことです。そういう特徴をもっている。
- その点、宣長は(笑)
- そういって理屈でわかること自体、頭で作っているのだろうと(笑) 『くずばな』に、
- と書いてあります。
- (笑)
そんな理屈でわかるようなものだったら神様なんていないだろうと。理屈でわからないから神なんであってということですよね(笑)
- ところで、なぜ宣長が“漢意(からごころ)”と名付けたかというと、実はちゃんと理由があるんです。先にも言いましたが、宣長は“漢意(からごころ)”の典型である儒教とまったく同じ理由で、印度で生まれた仏教も「物にゆく道」、“惟神の道(かんながらのみち)”ではないと指摘しています。さらに儒教を否定した老子に関しても、全く同様に論難しているんですけれど、ではなぜ“漢意(からごころ)”と名付けたのか。そこには、我が国における儒教の特殊なあり方が影響しているんです。
他の例えば仏教。宣長は仏教に関しても、あちこちで厳しく言っているわけです。ところが、『直毘霊(なおびのみたま)』や『くずばな』『玉くしげ』など彼の古道論の中心的著作では、仏教に関してはほとんど書いていない。その理由が、『くずばな』の付録に書いてありまして、そこで「仏教は真理に近い、またはそれほど問題がないから書いていないのですか」との質問に対して、「それは違う」と、いくつか理由を書いています。
掻い摘んで説明すると、ようするに仏教というのは、当時の日本人にとってあくまで異国の思想であるとの認識があった。つまり、ある種の相対化ができていたんです。これは自分たちがもともと持っていた「教え」ではなくて、外国から来たんだけれど、かなり立派そうな「教え」であると。それに死後のことがしっかりと書いてあると。そういった思いで多くの人たちは仏教を信奉していたんです。
ところが、厳格な出家主義だとか、殺生や肉食禁止、僧侶は妻帯してはいけないとか、数多の戒律があったので、仏教の教えを厳密に日本で実現するのは難しいということも強く感じていた。その結果、日本の場合、戒律を守るということに関しては、大乗の諸宗派でかなり大きく後退したわけですね。このような経緯から、仏教というものはやはり異国のものであると、皆わかっていたんです。
その一方で儒教というものがある。これはもう完全に道徳や倫理に近いじゃないですか。仁(愛)・義(正義)・礼・智・信とかですよ。これらは社会生活をやっていく上で、基本的に必要欠くべからざるものですよね。儒教はそれを名目としてあげているけれど、古来から我が国では、名目としてあげていないという違いだけです。そしてすべての物事を陰陽の概念で見る。二項対立としてみる。これは世界の成り立ちを説明する上で非常にわかりやすい。天と地、男と女、明と暗。どれもが道理に適っているように見える。 異国のものどころか、我が国を含めた世界の真理であり、「人の道」そのものであると人々は思う。
- 整理しやすいし、理解しやすい。
- 世界がどのように成り立っているのか。儒学では、太極から陰陽に分かれ、陰陽がさらに四象、八卦を経て、六十四卦すなわち森羅万象として展開していくわけですけれど。当時の日本において、これは異国のものであるという意識はまったく無くなっている。これこそ論理的に納得できるし、真理と確信できるというか。いまの言葉で言うとグローバルスタンダード。これを知らないと人ではない。人にも劣る。それぐらい人々の基本認識の中に喰い込んでいたんです。だから「仏教のことを厳しく言う人は昔からいたが、儒教に対して厳しく言う人はいなかった」(趣意)と宣長は言っているわけですね。
さらに、先ほど説明した創唱宗教など、教祖の個人的覚醒体験から作られた宗教などは、基本的に個人の超越的救済を目的にしているわけなんですけれど、この儒教にとって、個人の救済とは何よりも現世における徳の向上であり、「来世」や「神の国」といった宗教性神秘性や、世俗からの超越性はない。また、個人の救済にとどまらず、社会を治めるということをとても重視して作られている。個人から家族、そして国へと徳化を浸透させていく。このように、社会全体というか天下をうまく治めるために出てきた教えだから、儒教が重視する精神性は、基本的に人間がもともと持っているもの、これがなければ社会生活を行っていくのが難しいと思われるものと全く同じ。それを守ることによって、個人の徳を高め、社会を安定させる。非常に合理的で、実際的。現世で結果が出ると誰もが思うでしょうね。
これこそ人が生きる“道”なんだと。人が生きる“道”だから、日本人であろうが日本以外の国の人たちであろうが、これはどこでやっても通じる“道”。広い“道”。それを初めて説いたのが“聖人”だと。“聖人”は偉いんだと。このように儒学は、当時の寺子屋で教えられていた四書の学習を通して、何よりも「人の道」すなわち「道徳を説く教え」として、人々に深く浸透していたんです。
そもそも儒学は、「人の道」はなぜ必要かということを理詰めで説いてくる。だから、どこの国の人でも、わかりやすいし、納得できる。儒学が人間の基本的素養を身につけるための必須の教えとして、昔から日本で広く学ばれていたのは理由があるんですね。このような背景から宣長は、当時の日本人に、「グローバルスタンダード」として深く入り込んでいた、すべての物事を理詰めで考える世界認識の仕方、ものの考え方、心のあり方のことを、儒学によってもたらされたという意味で、“漢意(からごころ)”という名で呼んだのです。
だから宣長が“漢意(からごころ)”と言ったとき、そこには仏教も全く同じ性質をもった教えとして、その対象の中に含まれているんです。
- 最もその“漢意(からごころ)”において洗練されていたのが儒教であって、上下というのはおかしいのでしょうけれど、それに比べるとまだ仏教やそれ以外の天主教などはわかりやすいよということなのですね。
- そういうことです。日本の仏教には沢山の宗派がありました。浄土系、密教もあれば禅宗もあり。それから法華系もある。それこそ大乗仏教には様々な宗派がありますから、その宗派によって死後の世界観も違ってくる。 悟りの状態とか到達目標が違うものですから。だから「あれ?お宅の宗旨ではそうなんですか !? 」というのが普通にある。それが当たり前だと、みんな思っている。自分は念仏を信じているから西方浄土に行けるんだと。「いやいや、わたしたちの宗派では違いますよ」と(笑) どっちが正しいのかなぁと考えるわけでしょ。
もちろん儒教でも、宋代の朱子学やそれ以外の学派で様々な解釈があります。学者はそこら辺を問題にして論争しています。ただ一般の人から言うならば、到達目標としている五常(仁・義・礼・智・信)など、人間の目指すべき心のあり方、基本的徳目についてはまったく同じですから。だから、「唯一の道」。これは他の国のものである、外来のものであるという意識がなくなっている。自分たちの国にもともと古くからあって、尊ぶベき教えだと思っている。そこまで深く入り込んでいる。だからそれを見切るというか相対化するのは、人々にはすごく難しい。
それに対して仏教などは、宗派が違えばいろいろと言っていることが違う。だから相対化がその当時の人々にはできていたわけです。後は信じるかどうかの問題ですね。
儒教の場合は信じるか信じないかというレベルの話ではないですよ。もしそれを信じないなんて言ったなら、それはもう人でないというか、危ない人(笑) 野蛮人なのかということなんですね。
そのことから宣長はあえて“漢意(からごころ)”と言っているということは踏まえておかなければいけないですね。宣長の言っている“漢意(からごころ)”とは儒教に代表される中国思想への指向性ということだけに限定されるものではなく、いままで言ってきた創唱宗教やさまざまな学説や理論といったもの、そのすべてを視野に入れているものなんです。