Blog 本居宣長研究 「大和心とは」 : 『直毘霊』を読む・四
き・けり
回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の用語に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長ある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、きわめて主観的に、未来とは、話し手の漠とした推測・予想そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。
つ・ぬ
「つ」「ぬ」は、動作・作用・状態の完了を表現し、「り」「たり」は進行・持続を明示するのが本来の役割であった。これは、動作が完了したか、継続しているかについてだけ表現するもので、過去についても、現在についても、未来についても使うことができる。つまり、過去・現在・未来という、時の経過の過ぎ去った時点、あるいは現在という時点、あるいは未来という時点のうちの一つとしてとらえる時の認識とは別の認識の仕方を表わすものである。これを文法学者によっては、アスペクトの助動詞といっている。アスペクトはテンス(時制、過去、現在、未来)とは別の範疇に属する認識の仕方で、動作の開始、継続・完了という点に注意した把握の仕方をいう 。
●言語という自然現象の中に、あるいは純にあるいは不純に隠顕一貫している永遠のイデア的存在は意味形態であり、その時々の言語はこのイデアをmehr order weniger originalgetreu(多かれ少なかれオリジナルに忠実)に具現した不完全なAbbilder(模写)にすぎない。(『接続法の詳細』)
● 「事実」と「その言語表現」との間には直接何の関係も存在しない。「事実の考え方」と「その言語表現」との間にこそ関係が存するのであって、此の関係を確立し、定義し、描出するのが意味形態論の使命である。(『冠詞』)
● 意味形態は ... (中略) ... それなくしてはそもそも意味というものを結び得ず、言語というものを成し得ない所の主観的形式である ... (『冠詞』)
● 水に方円無し、器に方円あるのみ。器の方円を称して意味形態と呼んでもよいではないか。(『冠詞』)
● 意味形態論的文法とは、その個々の認識を全部集積したならば恐らく「これが人間である」と言い切ってよろしい様な断面にむかって認識を推し進めて行く文法である。(『冠詞』)
「千篇一律なるが故に効果のあつた祝言は、古い寿詞の筋であつた。後世の祝祭文の様に当季々々の妥当性を思はないでもよかつたのが、寿詞の力であつた。寿詞を一度唱へれば、始めて其誓を発言したと伝へる神の威力が、其当時と同じく対象の上に加つて来る。其対象になつた精霊どもは、第一回の発言の際にした通りの効果を感じ、服従を誓ふ。すべてが昔の儘になる。此効果を強める為に、其寿詞の実演を「わざをぎ」として演じて、見せしめにした。文句は過去を言ふ部分が多く加り変つて来ても、詞章の元来の威力と副演出のわざをぎとで、一挙に村の太古に還る。今日にして昔である。村人は、今始めて神が来て、精霊に与へる効果をも信じたのである。其力の源は、寿詞にある。寿詞は、物事を更にする。更は、くり返すことである。さらは新(サラ)の語感を早くから持つてゐた様に、元に還すのであると言ふよりも、寿詞の初め其時になるのである。」(『若水の話』)
「日本の地域は、大倭根子天皇ののりとの下る範囲内を示す詞であつた。正しく云へば、此祝詞がくだると、其土地が、日本を以て呼ばれるやうになるのである。だから、国家が拡がるにつれて、大倭根子天皇詔旨は、次第に重要な意味のものと考へられて、此は対外的のものであり、或はひろがりゆくべき祝福の詞章と解せられる習慣が出来たのである。私は日本(ヤマト)が、一部落の名から起つて、一国の名となり、更に、宮廷の時代々々に於ける、版図の総名にまで、延長せられて行つた理由を明らかにした。此は即位・大嘗・元旦に通ずる詔旨の威力の信仰に基くのであつた。(中略)
たゞ、最後に、言ひ添へるならば、高御座は、天上に於ける天神の座と等しいもので、そこに神自体(カムナガラ)と信ぜられた大倭根子天皇の起つて、天神の詔旨をみこともたせ給ふ時、天上・天下の区別が取り除かれて、真の天(アメ)の高座(タカクラ)となるものと信ぜられてゐたのである。」(『高御座』)
「更に不思議なことがある。天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。此信仰が、日本神道の根本をなしてゐる。此を解かないから、神道の説明は、何時でも粗略なものになつてゐる。台に登つて、ものを言はれると、地上が高天原となる。この時、天皇は天つ神となる。大和及び、伊予の天香具山(アメノカグヤマ)、同じく大和の天高市(アメノタケチ)、近江のやす川などの名は、皆天にある名を移したのである。後になると、忘れられて、天から落ちて来たものだ、と考へるやうになつた。
奈良朝のものゝ断篇だ、と言はれてゐる、伊予風土記の逸文に、天香具山は、伊予にもあると記して、天上のものが二分して、大和と伊予とに落ちて来た、と考へてゐるが、此は、後代の説明である。
宮廷の祭りの時に、天上と地上とを同じものと感じ、天上の香具山と見做された処が、大和・伊予にある香具山である。天の何々と呼ばれてゐるところは、天上と地上とを同じものと見た時に、移し呼ばれた、天上の名前である。
天子は常に、祭りをなさつてゐる為に、神か人か、訣らなくなつてゐる位、天上の分子の多いお方である。後世――と言うても、奈良朝頃――は常識的に、現神と言うてゐるが、古代にあつては、神であり、神の続きと見てゐる。」(『古代人の思考の基礎』)