本論 : 第十一回「神の御所為(みしわざ)」の巻

口語

さて世の中のあらゆる大小の様々の事は、天地の間に自然とあることも、人の境遇のことも、行う行動も、みなことごとく神の御霊(みたま)による御計らいであるのであるが、総じて神には、尊卑善悪邪正さまざまあるため、世の中の事も、吉事(きちじ)善事(ぜんじ)ばかりではなく、悪事(あくじ)凶事(きょうじ)も混じって、国の乱なども時々は起り、世のため人のために良くない事なども行われ、また人の禍福(かふく)などが、きっちりと道理に合っていないことも多い。これらは、みな悪神のしわざである。(玉くしげ)

注釈

第五回に以下のように書きました。

このように、この世界に存在するありとあらゆる「事」は、全てその存在の根底に「奇異(くすしあやし)さ」を持ち、その「奇異(くすしあやし)さ」に支えられて、初めて「事」として存在することができるといえるでしょうか。(第五回)

宣長によると、この世界とは、その根底に「奇異(くすしあやし)さ」を湛えた「物」と「事」の、止まることの無い生起消滅の連鎖体として捉えられています。

そして、宣長が『玉勝間』で、「すべて物の理(ことわり)は、つぎつぎにその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず。つひに皆あやしきにおつる也。」と喝破した通り、「奇異(くすしあやし)さ」は、「物」と「事」の存在自体を成り立たせているだけでなく、それらの織り成す動き(=世界運動すなわち時間)自体も、「何故そのようになったか」という最終根拠の不在によって、人智に測り知られざる「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なるもの」とされるのです。

すなわち、前回において指摘した、我が国における「一際(ひときわ)『奇異(くすしあやし)さ』の度合いが高く、『可畏(かしこ)きもの』にまで昇華したものを、その実物を直に指していう」という神の定義に照らせば、こうした、「物」と「事」の生起消滅に伴う動き自体も、『可畏(かしこ)きもの』として、神とされるのです。

こうして、上記本文の「世(よの)中にあらゆる、大小のもろもろの事は、天地の間(あいだ)におのづからあることも、人の身のうヘのことも、なすわざも、皆ことごとく神の御霊(みたま)によりて、神の御はからひなる」という宣長の言葉が導かれてくるのです。

ここで、古事記に登場する、様々な禍(わざわい)を起こすとされる禍津日神(まがつびのかみ)を例にとって、「神の誕生」を説明しましょう。この神について、宣長は『直毘霊』に以下のように説明しています。


口語

この世間に物を破壊したりなど、すベて何事も正しい道理のままにはあり得ないで、正しくないことも多いのは、みなこの禍津日の神の心によるもので、ひどくお荒れになる時は、天照大御神や高木の大神の御力をもってしても制することができない時もあるのだから、まして人力ではなんともしょうがない。あの善人も不幸な目にあい、悪人も幸福に栄えるという類の、尋常の理に反したことの多いのも、みなこの神のしわざであるが、外国には神代の正しい伝説がなくて、このわけを知ることができないために、ただ天命の説を立てて、何事でもみな当然の理でもって定めようとするのは、非常に愚かしいことである。(直毘霊)

注釈

上記の神の定義「其の実物を直に指していう」ということに留意して考えるならば、この禍津日神(まがつびのかみ)は、本来、この世に生起した「奇異(くすしあやし)き」までの、禍々(まがまが)しい事象(出来事)そのものを、「可畏きもの」として「神」としたのです。それが禍津日神(まがつびのかみ)と名付けられると、言霊(ことだま)の力によって神が実体化し、次第に人の心の中で、禍々しい不幸な事象(出来事)は、「禍津日神の所為(しわざ)」とされるようになったと考えられます。

この禍津日神のみに限らず、神代においては、「事」の織り成す動きそのものから、様々な性格の神々が、数限りなく生み出され、「可畏き所為(しわざ)」を顕現させ続けていたのです。まさに『八百万(やおよろず)の神々』と云われる所以でしょう。

注 : 『八百万(やおよろず)』とは、八百万という具体的な数のことではなく、「数の極めて多いこと」「数限りない」「無数の」などの意を表す語。

ところで、宣長の「世の中の何事も神の御所為(みしわざ)」という考え方は、現代に生きる私たちにどのような意味があり、何をもたらすのでしょうか。ここで若干補足しておきます。

私たちの多くは、普通、自分の行動は全て自分の自由意志に基づいて、主体的に選択しているものと考えています。そして、自分の判断が合理的であれば、絶対に選択を誤ることはない。それを積み重ねていけば、思い通りの人生を築いていくことができる、と思っています。それだけでなく、私たちの住んでいる社会全体も、一つの合理的な理念を着実に実現することにより、欠点の無い完璧なものに作り変えていくことができると信じています。

しかし宣長は、『玉くしげ』に「改めがたきを、強(しい)て急に直さんとすれば、神の御所為(みしわざ)に逆ひて、返(かえり)て為損(しそん)ずる事もある物ぞかし」と指摘するように、このような考え方こそ、まさに「漢意(からごころ)」の典型であり、自己の人生だけでなく住んでいる世界さえ、「私し事(=私意)」により、自分たちの思い通りに作り変えていけるとする姿勢は、最終的に神の御心(みこころ)にかなわず、逆に思いもよらない結果を招くと警鐘を鳴らします。

確かに、過去の歴史をひも解くとき、政治や宗教など、特定イデオロギーの正義の名の下に、いかに夥しい人々の血が流されてきたか。そこに思いを致すとき、この宣長の指摘は、思い半ばに過ぎるものがあります。

単に領土や経済的要因により起こった争いより、そこにイデオロギーがからみ、正義と悪の観念の闘いとなった争いの方が、はるかに情け容赦なく、悲惨な結末をもたらしているのは、歴史の語る否定しようのない事実です。まさに「禍津日神(まがつびのかみ)の荒(あら)び」もここに極まれり、といった感じです。

こうした現実を踏まえ、宣長は、「世の中の何事も神の御所為(みしわざ)」という考え方をベースに、人のあるべき姿について、一つの結論を引き出してきます。それは『玉くしげ』の中に、以下の通り記されています。

譬へば、神は人にて、幽事(かみごと)は、人のはたらくが如く、世中(よのなか)の人は人形にて、顕事(あらわにごと)は、其(その)人形の首手足など有て、はたらくが如し、かくてその人形の色々とはたらくも、実は是(これ)も人のつかふによることなれども、人形のはたらくところは、つかふ人とは別にして、その首手足など有て、それがよくはたらけばこそ、人形のしるし(=所以)はあることなれ、首手足もなく、はたらくところなくては、何をか人形のしるし(=所以)とはせん。(玉くしげ)


訳 : 例えば、神を人とすると、幽事(かみごと)は、人の動くようなものであり、世の中の人間は人形で、顕事(あらわにごと)はその人形に首や手足などがあつて、それが動くようなものである。このようにして、その人形がいろいろに動くのも、実はこれも人が人形を遣(つか)うからのことではあるが、人形の動くところは、これを遣う人とは別にあるのであつて、人形に首や手足などがあつて、それがよく動くからこそ、そこに人形の人形たる所以(ゆえん)があるのであるが、首や手足もなく、動く所もなかつたなら、何を人形の人形たる所以としようか。

注 : 顕事(あらわにごと)」とは、現世で人の行うしわざのこと。頂点は天皇が行う政(まつりごと)。「幽事(かみごと)」とは、目に見えない神のなすこと。神の御所為(みしわざ)。

すなわち、「神は人形遣いであり、人間はそれに操られる人形である」という譬えで表現されているように、この世における人のあるべき姿は、神の御心・御所為(みしわざ)のままに動く人形のように生きることなのです。一切の「漢意(からごころ)」を取りはらい、自己のかしこだてや料簡を捨てて、神の手足となって現世を生きる。これこそが、宣長の見出した人のあるべき姿なのです。

さてかの顕事(あらわごと)の国政の行ひかた、并(ならび)に惣体(そうたい)の人の行ふべき事業は、いかやうなるが、まことの道にかなふべきぞといふに、まづ上古に、天皇の天下(あめのした)を治めさせ給ひし御(おん)行ひかたは、古語にも、神隨(かんながら)天下(あめのした)しろしめすと申して、ただ天照大御神の大御心(おおみこころ)を大御心として、万事、神代に定まれる跡(あと)のままに行はせ給ひ、(中略)、惣(そう)じて何事にも大かた、御自分の御(おん)かしこだての御料簡(ごりょうけん)をば用ひたまはざりし、これまことのみちの、正しきところの御(おん)行ひかたなり。(玉くしげ)


訳 : さてかの顕事(あらはにごと)の国政のし方、ならびに一般の人の行うべき事業は、どのようなのが、真実の道にかなうものであるかというと、まず上古において、天皇が天下をお治めになった方法は、古語にも、「神随(かんながら)天下(あめのした)知ろし召す」(神の御心のままに天下をお治めになる)と申し上げて、ただ天照大御神の大御心を大御心として、万事、神代に定まっている事跡のままにお行いになり、(中略)、総じて何事でも、大抵はご自分のお知恵からのご意見をお用いにはならなかった。これが真実の道にかなった正しい行いのし方である。

それでは、神の御心・御所為(みしわざ)のままに動くとは、一体どのようにすることなのでしょうか。

キリスト教や仏教などの近代宗教であれば、教祖の言行を記した聖書や経典があり、人がどのように生きるべきかを事細かに書いています。しかし、宣長のいう「神(かん)ながらの道=古道」には、そのようなものは全くありません。神の御心にかなうとは、どのように生きればよいのでしょうか。

それは「真心(まごころ)」。つまり人が持っている「うれしい時はうれしい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい、さびしい時はさびしい」と、事に触れてありのままに動く心でこの世を生きることなのです。

第七回で書いたように、神は「真心(まごころ)」そのもので生きていますから、人も産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって与えられ、生まれもった「真心(まごころ)」で生きるとき、それがそのまま神の御心・御所為(みしわざ)に生きることになるのです。言いかえれば、宣長のいう「もののあはれ」に生きることこそ、人のこの世におけるあるべき姿なのです。そのとき、人は現世を生きていながら、そのまま神世を生きることになるのです。

そして、人々が神代と同様、「真心(まごころ)」で行動するかぎり、社会においても、一時的に凶事・災難などの禍事(まがこと)がはびこりますが、「悪はつひに善に勝ことあたはざる、神代の道理(玉くしげ)」により、それらは直毘(なおび)の御霊(みたま)によって、次第に直され回復されていき、総じて穏やかに治まった平和な世の中になっていくのです。

これこそが、宣長が古事記に記された神代の巻から見出した、唯一の「生死における安心(鈴屋答問録)」であり、生き方なのです。

最後に、宣長の『玉鉾百首』より一首引用して、この回を終わります。

いざ子達(コドモ)さかしらせずて霊幸(タマチハ)ふ 神のみしわざ助け奉(マツ)ろへ


大意 : 人々よ賢(かしこ)だてを止めて、神の御心に従い、神がこの世に善事をなし給う御業(みわざ)を助けなせよ。