本論 : 第十回「神」の巻

口語

「かみ」とは古典などにある天地の神々をはじめ、それを祭る社(やしろ)にある御霊(みたま)をもいい、人はもとより、鳥、獣、木草の類、海、山など、その外何でも、世の常ならずすぐれたところのあり、可畏(かしこ)きものを「かみ」という。「かみ」はこのように種々あり、貴(とうと)きも、賎(あや)しきも、強きも弱きもある。善きも悪しきもあり、心も行いもその様々に従い、とりどりであるので、およそ一つの基準で定めても論じることのできない存在である。まして、善きも悪しきも、たいへん尊くすぐれた神々の身の上は、とてもとても妙(たえ)にして、あやしく奇すしい。人の小さい認識で、その理(ことわり)など、智恵の一片も測りしることはできない。その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みているべきである。

注釈

今回より、いよいよ宣長の古道論の中核に位置する「神(かみ)」についての注釈に入ります。

宣長は、上記引用の『古事記伝』神代一之巻の本文に対する注釈として、以下の内容を補足しています。わかりやすく口語訳で示します。

また桃子に「オオカムツミ」という名を付け、みくび玉をミクラタナの神といったことも、「いわねこのたちかやのかきば」の、よくものを言った類も、みな神である。海、山などを神ということも多い。それはその御霊(みたま)の神をいうのではない。直(じか)にその海、山を指して神といった。これらも大変 可畏(かしこ)きものであるためだ。

世の人が、(神を)外国にいう仏菩薩・聖人などと同じ類のもののように考えて、しかるべき論理によって神の身の上を推測するのは、大変な誤りである。悪しく邪しまなる神は、何事も道理とは違った行いが多い。善い神でも場合によっては、正しい理(ことわり)のままでないこともある。事にふれて怒るときなどは、荒れたりすることもある。悪しき神も悦べば心なごみ、物に幸いを与えることが、絶えて無いこともない。また、人は理解しないが、その行いの、当面は悪いと思われることも、本当はよかったり、善しと思われることも、本当は悪(あ)しき理のあることもある。人の知恵には限りあり、本当の理は知ることができない。ともかく神の身の上は、みだりに推測して論ずるべきものではない。

「迦微(かみ)に「神」の字を当てているのは、よく当たっていると思う。ただし「かみ」というのは体言で、単にそのものを指していうのみで、その事その徳を指していうのではない。中国では物を指していうのみでなく、その事その徳などを指していい、体言にも用言にも用いる。例えば、中国の書物で神道というのは、測りがたいあやしい道ということで、その道のさまを指して神といい、道の外に神というものはない。しかし、わが国では神の道といえば、神がはじめた道、行った道ということで、その道のさまを「かみ」ということはない。もし「かみ」なる道といえば、中国の意味のようになるが、それでも、ただ単にその道を指していうことで、そのさまをいうのではない。」

また、『鈴屋答問録』に以下のように言っています。

わが御国は(中略)目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)をたずねまうけてとかくいへる事さらになければ、火はただ火也(なり)、水は水也、天はただ天、地はただ地、日月はただ日月也と見る外なし。


訳 : 我が国では、目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)を、根掘り葉掘り追求することは全く無かったのだ。火はただ火、水はただ水、天(あめ)はただ天(あめ)、地(つち)はただ地(つち)、日月(ひつき)はただ日月(ひつき)と見る外はないのだ。

皇国(みくに)にていうかみ(神)は、実物の称(な)にいえるのみにて、物なきに、ただ其(その)理を、指(さし)ていえることはなき也。されば唐の易(えき)に神道と云(いえ)るも、神霊不測なる道と云(いう)意なるを、御国にて神道と云(いう)神は、実物の神をさして云(いえ)り。又(また)社(やしろ)に祀る神の御霊(みたま)などを、かみと云(いう)は実物にはあらぬに似たれども、これも其(その)霊を、直に指(さし)てかみと云也(いうなり)。唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也。故に皇国のかみは体言のみに用いて、用言に云(いえ)ることなし。


訳 : 我が国でいう「かみ(神)」は、実物の名称としていうのみであって、物が無いのに、その理(ことわり)を指していうことは全くない。それだから、中国の易(えき)で神道といっているのも、神霊不測(しんれいふそく)な道という意味であるのだが、我が国で神道というときの神は、実物の神を指していっている。また社(やしろ)に祀る神の御霊(みたま)などを「かみ」というのは、実物でないのに似ているが、これもその霊を、直に指して「かみ」という。中国のように、その霊妙なるところをいうのとは異なる。であるから、我が国の「かみ」は体言のみに用いて、用言として用いる事はない。

以上、宣長の説くところによれば、我が国の「かみ(神)」とは、現代の我々が容易に連想する一神教で云う「ゴット」「ヤーウェー」「エホバ」「アッラー」などと呼ばれる唯一絶対の創造神、また中国における理の究極的存在たる「太極」などとは、根本的に異なるものであることがわかります。

要するに、常識では測る事の出来ない、恐るべき力を持つ突き抜けたものを、我が国では「かみ」というのです。

より正確に言いましょう。第六回で「この世の中で我々が最も親しく見慣れている存在である人間でさえも、形容しようのない『奇異(くすしあやし)さ』に満ち溢れており、人間だけでなく、この世に存在するありとあらゆる事で、『奇異(くすしあやし)さ』を有しないものは、一つとして存在しない」と書いたように、この世に存在するあらゆる「物」と「事」は、その根源において凡て『奇異(くすしあやし)さ』を持っています。

「かみ」とは、これら全ての奇異(くすしあやし)き「物」と「事」(=この世の全存在)の中で、一際(ひときわ)『奇異(くすしあやし)さ』の度合いが高く、「可畏(かしこ)きもの」にまで昇華したものを、その実物を直に指していう言葉であるといえるでしょう。

言うまでもなく、『奇異(くすしあやし)さ』に満ち溢れた存在は、何も良きものや尊い徳を持ったものに限りません。悪きもの、奇怪なもの、その外様々な恐るべき能力(徳)を持った存在も、ことごとく「かみ」とされています。

さらに注意すべきは、例えば山も川も海も神ですが、それはその山や川や海に宿っている霊を指して神というのではなく、上記に「かみ(神)というのは体言で、単にそのものを指していうのみ」(古事記伝)とされ、「直(じか)にその海、山を指して神といった」とあるように、すなわち、山、川、海そのものが神とされていることです。これは、原始社会において、凡てのものに霊魂の存在(精霊・妖精など)を認めるアニミズム(精霊崇拝)と、全く異なる神のあり方であるといえます。この意味において、神道はアニミズムではありません。

さらに、「唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也」とあるように、霊妙不可思議な「働き」、神秘的な「理(ことわり)」などを、神というのでもありません。あくまで、「実物」を指して神というのです。

例えば、第七回で「宣長の古事記伝によれば、この『産巣日(むすび)の神』は、この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもので、世々に人類の生まれ出で、万物万事の成り出でてきたのは、皆この御霊(みたま)の仕業に外ならないというのです。まさに産巣日(むすび)の神は、世界の『万物万事の生成』をつかさどっている神といってよいでしょう。」と産巣日(むすび)の神について説明しました。

しかし、正確に言うならば、『産巣日(むすび)の神』とは、「この世界で物が生み出されること(現象)そのもの」を直に指して神としているのであり、「物が生まれる働きや機能・作用」を指して『産巣日(むすび)の神』としているのではないのです。

また、「この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもの」というのも、『産巣日(むすび)の神』の御霊(みたま)の「働き」や「作用」によって、万物が生み出されたのではありません。『産巣日(むすび)の神』の御霊という「実物」が、万物という「実物」を生んだのです。すなわち「物」が「物」を、「事」が「事」を生むのです。これを「成る」といいます。

同様に、有名な「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」というのも、宣長によれば、今もこの世を照らしている「太陽そのもの」を指して神としているのです。

もう少し正確に言えば、我が国の神代に生きていた我ら祖先の目に実際に映り、「凡ての生命の生みの親」であり、彼らに「分け隔てなく御恵みを与え続けてくれる、ありがたくも尊き存在」として、「天照大御神」と名付けられた「太陽そのもの」を、「天照大御神」というのです。

現代の私たちが、我が国の神々を外国のゴット、仏菩薩や聖人のように考え、「しかるべき論理」によって神を理解しようとするのが、いかに大きな誤りであるか明らかでしょう。