本論 : 第九回「もののあはれ」の巻

口語

世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事の心を自分の心でありのままに知る。これが事の心を知るということである。物の心を知るをいうことである。物の哀(あわれ)を知るということである。そしてさらに詳しく分析していえば、ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。

注釈

まず、「あはれ」という言葉は、宣長によれば、「深く心に感ずる辞(ことば)」であり、後の世に、ただ悲しいことをのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、「あはれ」は「哀」の意味には限らない、としています。そして、「あはれ」は、元は、うれしい時、悲しい時、面白い時、腹立たしい時、恐ろしい時、憎い時、恋しい時、いとしい時など、そのほか何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「ああー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の辞」であるとしています。

つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、「様々な事または物に触れて、そのうれしく悲しき事の心(性質情状=あるかたち)を、我が身にわきまえ知ること」ということが出来ます。

また宣長は、「紫文要領」の別のところで、「もののあはれ」について、以下のようにも述べています。

  • 世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れはあるもの也。
  • 物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて有物(あるもの)也。

これによれば、「もののあはれ」は、私たちが想像するような、人間の感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その固有な存在様式として、あらかじめ遍在しているものなのです。つまり、「もののあはれ」は、人間の情感に先行して存在しているのです。

そして上記本文に、「ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。」とあるように、「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、それは心が能動的に知るのではありません。あくまで物・事の有り様に即して、その物・事を通して具現されている物・事の心を、我が心に受動的に知るのです。このとき心は、何か実質の詰まった実体ではなく、「空の器(うつわ)」として、物・事のありのままの受容体として機能することになります。

ところで、この刹那、心の中に瞬時に形成されるのが、宣長のいう「情」であり、それは、「あはれ」という「嘆息の辞」として結実するのです。この「嘆息の辞」は言葉になりません。第六回でも述べたように、自らの眼前に、物が物として、事が事として、ただただ存在しているという「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的驚きが、この「あはれ」という「嘆息の辞」に結実しているのです。対象と心は一体となりながら、存在の「奇異(くすしあやし)さ」に、はっきり気づき覚醒しているので、俗に言う茫然自失の状態とは少し違うようです。「もののあはれ」を知るとはこういうことです。

以上を少し別の角度からまとめて、この回を終わりにしたいと思います。「もののあはれ」は、深く論じれば尽きることはありません。

<まとめ>

  1. 「もののあはれ」を知るとは、物の持っている「性質情状(あるかたち)」を、ありのままに知ること。そして、「物のあるかたち」は人間の認識を超えた「奇異くすしあやし)き」ものであるから、「もののあはれを知る」とは「ものの奇異(くすしあやし)さ」を知るということ。
  2. このとき、「知る」とは、知的認識や観念・概念理解ではなく、その「奇異(くすしあやし)さ」をそのまま受容し、物の「性質情状(あるかたち)」をありのままに味わい、思わず「あはれ」という「嘆息の辞」を発するのみ。これがそのまま「情」として結実する。
  3. この「もののあはれ」を知るプロセスを繰り返すことにより、私たち人間が、心の奥底に根強く持っている「世の中の全てのことは、何らかの合理的な理屈によって、最終的に理解し納得できるものである」「世の中の全てのことは、私たち人間理性に納得できる次元で、何らかの意味と根拠を持つ」という、二つの漢意(からごころ)を祓い清めることができる。