本論 : 第八回「『真心(まごころ)』の型」の巻

口語

まず、すべて人というものは、産霊大神の産霊の御霊(みたま)によって、人が生きていくために行はねばならないような範囲の能力は、もとより具足して生れているので、各々が生きていくために必ず行はねばならないような事は、教えを受けなくても、充分に務め行うものなのである。君によく仕え、父母を大切にし、先祖を祭り、妻子やしもべをあはれみ、人ともよく交わりするなどの類い、また各々の家業を務めることなど、全て人の必ず行わなければならないことであるので、皆々生きている限りは、異国の教えなどを借りなくても、もともと誰でもよく弁え知って、充分に務め行うことなのである。

注釈

前回、宣長における「真心(まごころ)」について、簡単に説明しましたが、現代に生きる私たちの視点から見れば、一つ疑問に思うところが出てくるかもしれません。

それは、「真心(まごころ)」とは、善悪に関わることなく、「事に触れて動く」「生まれつるままの心」の状態であるなら、全ての人が、その「真心(まごころ)」のままに、思い思いに行動すれば、世界は善悪入り乱れ、結果的に悪の跳梁跋扈する無規範な混沌状態と化し、社会秩序が根底から崩壊してしまうのではないかという疑問です。

なるほど、これはもっともというべき疑問ですが、上に挙げた本文が、これに対する宣長の答えなのです。

宣長はこの根拠を、古事記に記された神代の趣(おもむき(おもむき=事跡))から導き出してきます。前回に書きましたが、古事記を見る限り神代は、八百万の神々が真心(まごころ)ではちきれんばかりになって、善であれ悪であれ、もろもろの「事」を思うままに為していたのですが、悪の跳梁跋扈する混沌状態となっていません。一時的に凶事・災難などの禍事(まがこと)が世にはびこりますが、「悪はつひに善に勝ことあたはざる、神代の道理(玉くしげ)」により、それらは直毘(なおび)の御霊(みたま)によって、次第に直され回復されていくので、総じて穏やかに治まっていたと宣長は言います。

だから、人の代(よ)の原型たる神代がそうであるならば、人が生まれたままの真心(まごころ)に従って行動している限りは、人の代(よ)は無秩序な混沌状態にならない。そこには、真心(まごころ)の表れ方に、産霊(むすび)大神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によって、あらかじめひとつの型とでもいうべきものが与えられている。それにより、多少の悪があったとしても、「真心(まごころ)」に基づく行動は、全体として、自己を含む共同体を必ず維持発展させる方向に、自然に向かうようになっている、というのです。

確かにこれは、動物の世界を見てみれば、よく理解できるように思います。

動物には、言うまでもなく漢意(からごころ)は全く存在しないのですから、その行動は、厳しい生存競争を生き抜くための本能のままです。にもかかわらず、同種の仲間同士では、相手を絶滅させるような大量の殺し合いはまず起こりません。また餌とする相手の動物に対してさえ、自らの生存に必要以上の無益な捕食は、ほとんど行いません。そして中には、子孫を維持し増やしていくために、自(おの)ずと群れを形成し、整然とした秩序を備えて、高度な社会生活を行う種まで存在します。そこには、何か「奇異(くすしあやし)き」大きな力が働いているようにさえ見えます。

当然、人間も動物の一種です。かつ、その誕生以来、常に集団を作って生きてきた社会的動物です。

その故か、人間は、決して独りでは生存できないということを本能的に知っています。ですから、生き続けるための本源的な欲求から、自己を含む共同体の形成・維持の本能が、自然に備わっています。つまり、自分の仲間の死に対する恐れや他者への思いやり、助け合い、さらに共同体全体の繁栄が継続するための希求や努力が、社会の発生と共に生まれるのです。

こうしてみると、漢意(からごころ)でやかましくいわれる倫理・道徳などは、理念化・観念化される以前に、生活の場で無意識に自然と行われていることが多いのです。なぜなら、それらは皆、生存のため必要不可欠だからです。同様に、法律(掟・しきたり)も、社会的動物としての人間が、共存発展するための智恵より生まれた、自然発生的なものです。これも、あくまで生存のために必要な、一つの道具なのです。

以上のように、人間が神代と同様、「真心(まごころ)」で行動する限り、『真心(まごころ)の型』が自然に発動し、多少の悪があったとしても、全体として見れば、自己を含む共同体を維持し繁栄させる方向に自然と向かう、という宣長の指摘は、それなりの説得力をもって聞こえてきます。

そして、当然のことながら、これら自然発生的な倫理・道徳・法律(掟・しきたり)などは、誰か特定個人の観念や理念から創り出された形而上的価値の実現を求めるもの(=宣長はこれを「私し事(=私意)」といいます。)ではなく、社会的動物としての人間の生存本能という共通基盤にその拠り所を置き、何よりもまず、自己の属する共同体の弥栄を求めるもの(=宣長はこれを「公(おおやけ)」といいます。)なのです。

解釈の視点が、現代的視点に偏りすぎたきらいがありますが、以上、敢えて説明してみました。