本論 : 第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻

口語

真心(まごころ)とは、産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって、備え持って生(うま)れたままの心をいう。さてこの真心には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、さまざまであって、天下の人は、ことごとく同じものではないので、神代の神たちも、善事にもあれ悪事にもあれ、おのおのその真心によって行いなさったのである。(中略)すべて善にもあれ悪にもあれ、生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆真心を失うのである。

注釈

宣長の玉鉾百首に真心(まごころ)を詠った次のような歌があります。

事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ

彼の弟子、本居大平は、この歌を以下のように注釈しています。

うごく心とは、うれしともかなしとも思ふは、心のうごくなり。何事にても、楽しき事にても、憂(うれ)はしき事にてもある時は、その事に触れて、感動するぞ、まことの真心(まごころ)といふ物なりける。

つまり、真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」と定義されているのです。

私たちは、「あの人は真心がある」というような場合、通常「あの人は誠意がある」というような意味で、「真心(まごころ)」という言葉を使っています。そこには、「良い事」において「心がこもった」「一生懸命さ」といった、ある種の価値判断を伴った意味が、あらかじめ想定されています。

しかし、宣長のいう真心(まごころ)は、これとは異なり、善悪、賢愚、巧拙など、一切の価値判断に関わることなく、何よりも、事に触れて「動く」という心の純粋な機能を、何の障りもなく、十全に働かしている心をいうのです。より簡単に言えば、「うれしい時はうれしい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい、さびしい時はさびしい」と、事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。

従って、宣長においては、巷で良い意味でいわれる「不動心」などというものは、「真心(まごころ)」とは、およそかけ離れたものであることになります。

世の識者が、現代の科学によって全ては明らめられたと信じ、どんなものを観ても、その理論理屈で捉えて、心が動ずることがないのを、誇らしげにしているのは、さしあたり真心(まごころ)とは正反対の状態といえるでしょうか。

そして神代では、まさに八百万の神々が、このような真心(まごころ)ではちきれんばかりになって、善であれ悪であれ、諸々の「事」を様々に為していたのです。非常に多様な情動の、ダイナミックに躍動する生き生きとした世界が想像できそうですね。

次に「産巣日(むすび)の神」について考えてみましょう。

古事記では、天地(あめつち)の初めの時に、高天の原(たかまのはら)に、天之御中主(あめのみなかぬし)の神、高御産巣日(たかみむすび)の神、神産巣日(かみむすび)の神の、三柱の神が出現しますが、高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすび)の神の二柱の神を合わせて、「産巣日(むすび)の神」と総称したものです。

宣長の古事記伝によれば、この「産巣日(むすび)の神」は、この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもので、世々に人類の生まれ出で、万物万事の成り出でてきたのは、皆この御霊(みたま)の仕業に外ならないというのです。

まさに産巣日(むすび)の神は、世界の「万物万事の生成」をつかさどっている神といってよいでしょう。

そして、真心(まごころ)、つまり人が持っている「事に触れて動く心」も、他ならぬこの産巣日(むすび)の神によって、人が誕生する時に、あらかじめ先天的に与えられたものであるとしています。

実は、産巣日(むすび)の神については、もっと掘り下げて説明する必要があるのですが、詳しくは後の回に譲ります。

ところで前回、漢意(からごころ)を取り去った時、我々の眼に見えてくるのは、まさに「物」が「物」、「事」が「事」そのままに、測り知れない「奇異(くすしあやし)さ」を伴って立ち現れてくる光景であるといいましたが、まさにこれは真心(まごころ)のままに生きている時にも、そのまま同じことがいえるようです。ですから、「真心(まごころ)」とは、「漢意(からごころ)を取り去った心」とも、言い換えることが出来ます。

また、第二回で、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態を、「実(まこと)」と言うといいましたが、真心(まごころ)も、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態に外なりませんから、「真心(まごころ)とは実(まこと)にあることである」ともいえるでしょう。

つまり、私たちがこの世において、漢意(からごころ)を取り去って生きるということは、刻々と出現する「事」に対して、常に「真心(まごころ)」を発し続け、「実(まこと)」の位(くらい)において存在していくことに、外ならないともいえましょう。

この時私たちは、そこに存在しているという事実以外、いかなる当為観念や理念も存在しない状態において、純粋に「事」として、また「奇異(くすしあやし)さ」の顕現の通路として、存在することになります。