本論 : 第六回「奇異(くすしあやし)さ」の巻

口語

神代の事が霊妙で不可思議であるのを、人の代の事と同じでないという理由から、怪しみ疑うであろうが、実は人の代の事も種類こそ異なれど、皆霊妙で不可思議であるのに、それは今現実に見慣れ聞き慣れて、常にその中にいるから、霊妙で不可思議であると思わないのである。

注釈

宣長は、上記の文のほかにも、玉勝間の中に『あやしき事の説』と題して、次の様な随筆を書いています。とても面白い内容ですので、全文引用してみましょう。

もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首(かしら)といふ所有て、その左り右に、耳といふもの有て、もろもろの声をよくきき、おもて(面)の上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又(また)下に、口と云ふ物ありて、おく(奥)より声の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすままに、その声さまざまにかはりて、詞となりて、万(よろづ)の事をいひわけ、又首(かしら)の下の左り右に、手といふもの有て、末に岐(また)ありて、指(および)といふ。

此およびをはたらかして、万(よろづ)のわざをなし、万(よろづ)の物を造り出せり。

又(また)下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うご(動)かしはこ(運)べば、百重(ももえ)の山をものぼりこえて、いづこまでもあり(歩)きゆきつ。

かくて又(また)胸の内に隠れて、心(こころ)といふ物の有つる。こはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件(くだり)耳の声をきき、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける。

さるに此(この)人といひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重(おも)りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いささかうごくこともせずなりてやみにき。と記したらむ書を、じゆしや(儒者)の見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理(ことわり)もなく、つたなき寓言(よせごと)にこそはあれ、とぞいはむかし。(玉勝間)


訳 : もし人というものが、今はいなくなってしまった世の中で、神代にそのようなものがあったと書き記したとする。「その人といったものの様子は、まず上の方に、頭というところがあって、その左右に、耳というものがあって、あらゆる声をよく聞き、顔の上の方に、目というものが二つあって、あらゆるの物の色や形を、あますところなく見て明らかにして、その下に、鼻というものもあって、物の香りをかぎ、また下に、口というものがあって、奥より声が出るのを、唇(くちびる)を動かし、舌をはたらかすままに、その声が様々に変って、言葉となって、あらゆる事を言い分け、また頭の下の左右に、手というものがあって、末端に分岐があって、指という。

この指を働かして、たくさんのしわざをなし、たくさんの物をつくり出した。また下の方に、足というもの、これも二つあって、動かし運べば、幾重もの山をも登り越えて、どこまで歩いていった。

さて、また胸の内に隠れて、心(こころ)というものがあった。これはたくさんある中でも、特に不可思なものであって、色も形もないものにもかかわらず、上記のように耳の声を聞き、目の物を見、口のもの言い、手足のはたらくのも、皆この心のしわざである。

それなのに、この人というもの、あるとき大変悩んで、次第に病気が重くなっていくうちに、ついにこうした様々なしわざは皆止んで、全く動くこともなくなってしまった」と書き記したような書物を、もし儒者が見たとしたら、例のごとく信じずに、

「神代であるからといって、どこにそんな不思議なことがあるものか。すべてに道理がないばかりか、何ともへたくそな譬え話であることよ。」と言うに違いない。(玉勝間)

そして、上記に続けて、下記のように記しています。

すべて神代の事どもも、今は世にさることのなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや。今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね。つらつら思ひめぐらせば、世の中にあらゆる事、なに(何)物かはあやしからざる。いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ。


訳 : 総じて神代の事は、今の世の中にそのようなことがないから不思議だと思うけれども、もし今もあったとしたら、不思議だと思うだろうか。今世の中にあることも、今あるからこそ、不思議とは思わないのだが、よくよく思慮を巡らせば、世の中にあるあらゆることの中で、何ものが不思議でないだろうか。せんじつめれば、不思議でないものは何一つとして存在しないのだ。

こういうのを読むと、本居宣長という人が、その時代の固定観念や常識、価値観から、いかに自由な感性をもっていたかを如実に感じます。

ここで宣長は、この世の中で私たちが最も親しく見慣れている存在である人間でさえも、形容しようのない「奇異(くすしあやし)さ」に満ち溢れており、人間だけでなく、この世に存在するありとあらゆる事で、「奇異(くすしあやし)さ」を持たないものは、一つとして存在しないと言っています。

このように、漢意(からごころ)を取り去った時、私たちの眼に見えてくるのは、まさに「物」が「物」、「事」が「事」そのままに、測り知れない「奇異(くすしあやし)さ」を伴って立ち現れてくる光景であり、そして、この光景に立ち会った我々は、現前するそれらを、まさに「奇異(くすしあやし)さ」故に、「畏(かしこ)きもの」と深く感嘆し、その「奇異(くすしあやし)さ」を受容して、それと一体となる外に、どうしようもない自己に気がつくでしょう。

この時、「事」に触れた刹那、「事」の受容の過程で、我々の心の底に受動的に結晶されるあるものが、宣長のいう「情」なのです。

この「情」は、まさに「あはれ(=深く心に感じる時に思わず発せられる辞。哀しみには限らない)」と深く嘆息する以外に表現のしようがありません。

そして私たちは、この「情」によってこそ、「理の世界」に先立つ「事の世界」、すなわち人間のさかしらによって作られた理念や観念による虚構世界から、「物」「事」が「物」「事」として独自に在るという奇異(くすしあやし)き存在の世界、すなわち真実の世界に、初めて足を踏み入れることができるのです。