本論 : 第五回「『物』の性質情状(あるかたち) その二」の巻

口語

漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地(あめつち)はただ天地(あめつち)、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性質情状(あるかたち)はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)な るものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。

注釈

それでは、漢意(からごころ)を清く洗い去り、「物」を「物」として、「事」を「事」として、そのままに観ることができたとき、目の前に見えてくる世界とはどのようなものでしょうか。

これに対する宣長の回答は、「天地はただ天地、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)」というものです。拍子抜けするほどにシンプルな表現ですが、いずれも「ただ」という言葉(副詞)で、二つの「物(名詞)」がつなげられています。ここがとても大切なポイントです。

つまり、漢意(からごころ)がとり払われた私たちの眼前に現れてくるのは、すべてが金色に光輝く天国のような情景などではなく、いかなる観念や概念にも色づけされない「物」が、おのおの独自の性質情状(あるかたち=固有性)をその身に纏いながら、“ただ”「物」そのものとして存在している事実の世界だというのです。

そこには、「物」が「物」として在るという事実より外に、いかなる理(ことわり)も存在しません。既存の観念や概念によって置換されていない分、逆に、その「物」自体が個別にもつ性質情状(あるかたち=固有性)が、生々しいまでの圧倒的な実在感を伴って、見る者に迫ってきます。

このような、「物」そのものもつ存在感と固有性にあふれた底知れない光景は、形容しようにも言葉にならず、ただ深く心に感じるあまり、思わず「ああー」という「嘆息の辞」の外に、何の表現のしようがありません。この「嘆息の辞」を、宣長は「あはれ」という言葉の原義としています。

そして、その「あはれ」を自(みずか)ら深く味わうとき、そこに自然と湧き上がってくるのは、これらの存在に対する、ある種の畏(おそ)れにも似た思い、宣長の言葉を借りれば、「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」感慨ではないでしょうか。

この「物」がこの「性質情状(あるかたち)」をもって眼前に存在しているという、物自体の存在の淵源は、自分たちが理解できる次元、例えば時間の中での因果関係、あるいはその“意味”という観念化したものに落として理解しようとする限り、永遠に極め尽くすことはできません。

すなわち、人間の「私事(わたくしごと)」に属する「心法のさだ」を以ってしては、その根本の理(根拠)を、測り知ることは決してできないのです。それは宣長の言うように、最終的に、みな「奇異(くすしあやし)き」ところに落ちてしまいます。

宣長は、事ここに至ってしまえば、「物」が「物」そのものとして、各々「性質情状(あるかたち)」を自(おの)ずから備えているのは、もはや「神の御所為(みしわざ)」という外ないと言っています。つまり、「奇異(くすしあやし)き」ところから、「神の御所為(みしわざ)」を導き出してくるのです。ここは、後にも述べますが、とても大切なポイントとなります。

ところで、第二回に述べたように、この「物(もの)」という言葉は、そのまま「事(こと)」という言葉に置き換えることができます。

すなわち、「事」が「事」そのものとして存在しているのが、この世界の有り様であり、「事」が「事」として在るという事実より外に、この「事」は何故この「事」としてあるのかと問うても、その答え(根拠)はありません。だから、それは「事」としてあるそのままで、「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」事であり、いかに人間の知恵を尽くしても、明らめることのできないものなのです。

このように、この世界に存在するありとあらゆる「事」は、全てその存在の根底に「奇異(くすしあやし)さ」を持ち、その「奇異(くすしあやし)さ」に支えられて、初めて「事」として存在することができるといえるでしょうか。

そして、この人智に測り知られざる「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」働きは、上述したように、宣長(=古事記)においては「神の御所為(みしわざ)」そのものとされていますから、次のようにもいうことができます。

宣長曰く、

原文

「そもそも此(この)天地(あめつち)のあひだに、有りとある事は悉有(ことごと)に神の御心なる」


口語

そもそもこの天地の間のありとあらゆることは、ことごとく神の御心であるよ。

(直毘霊)

現代の学者の多くが、この文を理解できず、困惑し、「宣長個人の信仰に基づく言辞」としていることが、いかに的外れであり、自(みずか)らの読みの浅さと、漢意(からごころ)に深く侵されている心を、はからずも露呈しているものといえるでしょうか。