本論 : 第四回「『物』の性質情状(あるかたち) その一」の巻

口語

この陰陽(=二項対立)の理ということは、極めて古い時代から、世人の心底に深く染着(しみつ)いていることで、誰もがこれは天地自然の道理であって、一切の事物が、この理(ことわり)を離れることがないと思うであろうが、それはやはり漢籍の説に迷わされた心である。漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地(あめつち)はただ天地(あめつち)、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性質情状(あるかたち)はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)なるものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。

注釈

本来の「物(モノ)」や「事(コト)」を離れ、それを自分勝手に概念化・観念化し、既存の価値体系(イデオロギー)の中に乱暴に放り込んで、「物」「事」の善悪・可否を論定してしまう漢意(からごころ)。

それは、現代を生きる私たちの心の中にも深く染みついていて、時代を経るにつれて、いよいよ強固になっているようにさえ見えます。

このようなものの見方が支配する世界では、概念化・観念化できない曖昧なものや、その基になる価値体系(イデオロギー・理念)に合致しないもの、枠から外れるものは、無価値なものとして、跡形もなく捨て去られてしまいます。

宣長に言わせれば、それは、理念・理論に合致したものだけが存在できる硬直した観念世界であり、本来の「物(モノ)」「事(コト)」がもつ生々しい実在感や躍動感、みずみずしい情感と肌ざわりを欠いた死の世界。宣長のいう「もの(物)のあはれ」など、そこに存在できるはずもありません。

宣長が、漢意(からごころ)に対し、なぜあれほどまで、その生涯にわたって執拗に警鐘を鳴らし続けたのか。ここに思いを致すとき、少なからず理解できるように思います。

それでは、もし漢意(からごころ)を清く洗い去ることができたとき、私たちの目には、一体何が見えてくるのでしょうか。

言いかえれば、「物」を「物」として、「事」を「事」として、そのままに観ることができたとき、その視界に自(おの)ずから立ち現れてくる世界とはどのようなものでしょうか。

実は、今回の原文の後段が、それに対する宣長の答えなのですが、次回、そのことを詳しく述べてみたいと思います。