本論 : 第三回「漢意(からごころ)とは」の巻

口語

「漢意(からごころ)とは、中国風の生き方を好み、中国思想を崇敬する心のみをいうのではない。世間の人が、あらゆる物事の善悪や是非を論じ、物の道理(事象の背後にある、我々に理解可能な、概念化された原理・原則)を論定していうことなどの類は、皆漢意(からごころ)であるのをいうのである。そんなことを言うのは、何も中国の本を読んだ人ばかりではない。本などというものを、一冊たりとも読んだことのない人でさえ、そうなのだ。」

注釈

ここで宣長は、「事(コト)」の背後に、何らかの、私たちに了解可能な論理に基づいた原理・原則を、無意識的に求めてしまう志向性を、漢意(からごころ)と名づけています。また、次のようにも言っています。

原文

「儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうへに又太極(たいきょく)無極(むきょく)といふものをとけり。然れどもその太極無極は、いかなることわりいかなる故(ゆえ)にて、太極無極なるぞといはむに、 こたふべきよしなきが故に、かの両部神道(りょうぶしんとう)には、仏の道の密教の義(こころ)によりて、今一(ひと)きは上(うえ)を説て、これを阿字真如海変動自在の所作などいひて、もろもろの道に勝(すぐ)れたるごとく、ほこれども、その阿字真如(あじしんにょ)は、又いかなる理いかなる因縁にて、変動自在なるぞといはむには、いかがこたへむとする。

すべて物の理は、つぎつぎにその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず。つひに皆あやしきにおつる也。然(しか)れば陰陽も太極無極も、阿字真如も、みなかり(仮)のさへづりぐさにして、まことには其(その)理あることなく、えうなきいたづらごと也(なり)かし。」


口語

「儒教では、すべてのことを陰陽(いんよう)の理論で説き、その上にまた太極(たいきょく)無極(むきょく)というものを説いている。しかしながら、その太極無極は、どのような道理、どのような理由でもって太極無極なのだといったとすれば、答える手段がないため、あの両部神道(りょうぶしんとう)の教義では、仏教の密教の理論によって、さらに一層上を説いて、これを阿字真如海変動自在の所作などといって、すべての道理に勝(すぐ)れていると誇っているけれど、その阿字真如(あじしんにょ)は、またどのような道理、どのような因縁によって変動自在なのだ、といったとすれば、どのように答えようとするのであろうか。

すべて物の理(ことわり)は、つぎつぎにその根源を推し量り、極めつくしていったとしても、どのような理由とも、どのような道理とも知ることができるようなものではない。終いには皆、不可思議なところに落ちこんでいってしまうのだ。そうであれば、陰陽も太極無極も阿字真如も、みな仮(かり)そめのおしゃべりであって、実際にはその理(ことわり)など存在せず、全く役に立たない無益なしろものということになる。」

(玉勝間)

ここで、本居宣長は、「物の存在の根拠(=理ことわり)をいくら問うても、その問いは永遠に繰り返され、終わることはない(趣意)」ということを言っています。

つまり「何故そうなのか?」「どうして存在するのか?」「その理由は何?」という問いは、いかなる解答に対しても、常に再生産され、生き延びてしまう。

なぜなら、そもそも物それ自体の存在性は、人間の認識とは関わりなく、それ自体で(異なった次元で)根拠を持っているため、いかなる理由付けも、所詮人間の「さかしら(漢意)」にすぎず、そもそも存在の根拠を問うという質問自体が、根本的に誤っているというのです。

このように、この世に存在するあらゆる人造の原理やイデオロギーに基づいた概念規定のみならず、倫理的道徳的な当為観念に至るまで、「物」や「事」に外側から付着し、「物」や「事」を規定(限定化)し、概念や観念として実体化する全ての認識方法を、宣長は「漢意(からごころ)」と名づけているのです。

宣長が『玉鉾百首』にも、

原文

「人みなの 物のことわり かにかくに 思ひはかりて いふはからこと」


口語

「世の人々が、物の道理をあれこれと、考えめぐらしていうのは、まさに漢意(からごころ)というものであるよ。」

(玉鉾百首)

と詠んでいる通りです。ちなみに、本居大平によるこの歌の注釈には、

原文

「からことは、漢流(からりゅう)の説をいふなり。世の人、何事につけても、それはかやうの理にて、しかり、これは、かやうの理にて、然りと、まづその理を、とやかく也とさだめいふ。そはみな漢国(からくに)の風俗にて、から説(こと)なり。すべてのこと、その理は実はしれぬことなれば、大やうにて、何となく心得おくぞ、御国のいにしへの意(こころ)なりける。」


口語

「からこと」とは、漢流(からりゅう=中国流)の説をいうのである。世の中の人は、何事につけても、「それはこのような道理(理屈)でそうである。これはこのような道理(理屈)でこうである」と、まずその道理を、あれやこれやと論定していうが、それは皆、漢国(からくに=中国)の風俗であって、漢流(からりゅう=中国流)の解釈の仕方である。すべてのことの本当の道理は、実は知り得ないことであれば、おおよそを、何となく心得えておくのが、我が国古来の精神(こころ)であるよ。

とあります。

以上、漢意(からごころ)について、簡略に説明しました。

次回いよいよ、この漢意(からごころ)を取り去った時、私たちの目に何が見えてくるのか、順次述べていきたいと思います。