本論 : 第二回「事(こと)とは」の巻

口語

「そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、皆互いにぴったりと合う物で、上代(古代)は、意も事も言も上代、後の代は、意も事も言も後の代、漢国(からくに=中国)は、意も事も言も漢国である。(中略)

この古事記は、いささかもさかしら(漢意)を加へずに、古代より言い伝えられたままに記されているので、その意(こころ)と事(こと)と言(ことば)も、互いにぴったりと合う物で、皆上代の実(まこと)そのものである。」

注釈

ここで、意(こころ)と事(こと)と言(ことば)という三つの用語が出てきましたが、今回は、「事」をとりあげたいと思います。

それでは「事」とは何でしょうか。

まず、宣長のいう「事」を分析すると、次の二つの意味があることがわかります。

  1. 「事」とは、行い、行為、行動のこと。つまり、「心」が発動し、次に、それに基づき「言(ことば)」が発動し、次に行為すなわち「事」が発動するということです。そして、上記の文で、心と言葉と行為が相かなう (一致する)状態を、「実(まこと)」と言っています。「実(まこと)」とは、俗に言われているような、「善一筋」や「真理のみ」といった意味でないことに、注意が必要です。
  2. 「事」とは、生起した出来事、事実、また事の有様(事柄)のこと。(物も、そこに存在しているという事実において、すでに「事」である。)

そうすると、宣長において「この世(=世界)」とは、すなわち「事」の集積体のことであるといえます。そこは、一瞬一瞬刻々と生まれ、多種多様、あらゆる形に成りながら、不断に展開し続ける「事」の世界。

「事」は、「物」や「事」と「心」が接する刹那に、次々と際限なく生み出されていきます。言わば私たちは、その世界に「事」顕現の過程(プロセス)として存在しつつ、同時に「事」そのものとして存在しているといえるでしょうか。

注意しなければならないのは、「事」の世界においては、たとえ自分一人の心理上の「事」だからといって、客観的に起こった出来事(事件)と比べて、事としての重み(=重要度)が減ってしまうということはありません。また、その逆も然りです。

「事」の世界において、重み付けの物差しは、唯一、「事」と「心」の接触による感応の度合いの大小です。

そして、「事」に接した刹那、「心」の内に結晶した「或るもの」を、宣長は「情」と名付けました。

この「情」は、「事」をそのままに受容し「もの(物)のあはれ」を知る、あくまで受動的な機能を持ったものと位置づけられています。

さてここに、有名な「もの(物)のあはれ」が出てきましたが、詳細は後段にゆずります。

ところで、この「事(コト)」と、前回に取り上げた「物(モノ)」とは一体どういう関係にあるのでしょうか。

結論からいえば、「物(モノ)」とは、実はこの「事(コト)」に外なりません。

これは現在国語の中で、“モノ”と“コト”が別の意味を表すようになっているので分かりにくいですが、“コト”を瞬間で見るならば、それは“モノ”。“モノ”も“コト”も根源は一緒です。同様に“事(コト)”と言葉の“言(コト)”も、実は一緒です。前回の補足で引用した岩波古語辞典の説明にもありますが、これらは時代を経るにしたがって分化していったのです。

要するに、“モノ”そのものが連なって、その連なりに関連性があり、動き(変化)の相から見るときが“コト”で、ひとつひとつに分解し、静的に見れば、それは“モノ”となります。そして、“モノ”も“コト”も、それぞれ固有の「性質情状(あるかたち)」を持っており、それが人間に様々な「情」を喚起させる。その仕組みは全く同じです。

さらに、“コトバ”というのも、刻々と生まれてくる“モノ”“コト”そのものですから、“コトバ”が生まれた瞬間、表現された“コト”と、出来事の“コト”は等価です。つまり、出来事の“コト”であろうと、言葉の世界で表現(実現)された“コト”であろうが、それを受け止める「情」から見れば、全く同じ感応を受けるのです。

結局、世の中に生起した事(コト)という意味では、出来事として起こった“コト”も、言葉として起こった“コト”も、同じということになります。

宣長によれば、私たちは現実には、そのような世界に生きているということになります。

それでは、このような「事」を、そもそも成り立たせている根拠とは、一体何なのでしょうか。

宣長によれば、まさにこのように思考すること自体が、「漢意(からごころ)」と名づけられた思考方法に外なりません。そして、この漢意(からごころ)こそが、「事」を「事」として、そのままに受容することを、妨げているというのです。