本論 : 第一回「物とは」の巻

口語

「禊祓(みそぎはらい)というのは、身体の汚垢(けがれ)を清めることであって、心を祓い清めるというのは、外国(とつくに)の意(こころ)に外ならず、わが国の古代では、そのようなことは決してない。(中略)とにかくも、何事でも心の観点のみによって、理非善悪を裁定することは、私意に属することである。」

注釈

「禊祓(みそぎはらい)」というと、普通、宗教的な礼拝や神仏への祈願を行うときに,冷水や海水を浴びて心身の垢を落とす水垢離(みずごり)の慣習を思い浮かべる人が多いと思います。一般に、それを行う目的は、心を浄化するためといわれています。

ところが宣長は、本来「禊祓(みそぎはらい)」というのは、ひたすら身体を清浄にすることであり、禊祓の対象になるのは、「心」ではなく、あくまで「物」としての身体であるといっています。我が国の古代(上代)において、禊祓は「心」を清めるために行われたものではないというのです。

ここでいう「物」という語は、心や精神と対になる、物体・物質の意味で使っていますが、一方、古語しての「物(モノ)」には、物体としての意味以外に、とても幅広い意味があります。それは広く出来事一般まで含み、人間が対象として感知・認識しうるものすべてを「物(モノ)」といいます。

宣長も「もの(物)のあはれ」を筆頭に、「物にゆく道」など、この「物(モノ)」という語をよく使います。当然、彼のいう「物(モノ)」は、古代(上代)に使われていたとされる意味で使われています。詳しい説明は後ほどしますが、宣長によれば、この世界とは実に様々な「物(モノ)」によって成り立っている場のことなのです。

それでは、「禊祓(みそぎはらい)は心を清めるためである」という見方は、なぜ「私し事(=私意)」となってしまうのでしょうか。

宣長は、この「私し事」という語を「公(おおやけ)」という語と対で使っていて、その事やその物が指し示す本来の意味内容を離れて、その物事を、政治や宗教、道徳などの別のカテゴリーの体系に自分の都合よく置き換えて、理解しようとすることを意味します。要するに、物事の心から離れて、自分の論理や世界観(イデオロギー)で勝手に理解し、本来の「物(モノ)」や「事(コト)」を自分流に捻じ曲げてしまうことを、「私し事」というのです。

古事記伝に書かれたこの宣長の言葉は、短いですが、とても射程の深い言葉だと思います。なぜなら、心の浄化を重視する宗教的・倫理的世界観のみならず、私たちが当たり前に思っている物事の了解方法を、根底から疑問視することにつながるからです。

そして宣長のいう「もの(物)のあはれ」の「物(モノ)」とは、こうした私たちが当たり前に思っている見方そのものを取り去ったとき、初めて目の前に浮かび上がってくるのかもしれません。

今回は以上にとどめて、次回から具体的な説明に入りたいと思います。最終的に、宣長のいう「物にゆく道」(直毘霊)の端緒にたどり着ければと思います。

補足

参考までに、古語における、「物」と「事」という言葉の一般的な意味を、以下に概説しておきます。

(岩波古語辞典より引用)

物(モノ)
  • 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。
事(コト)
  • 古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以降に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた。